大切
夕暮れ前の、どこか冷たい日差しが世界を覆っている。
呼吸するのも億劫になりそうな心境の中、それでも僕は走って、走って、走って。
鈴に会わないとという一心で、他のことは何も考えられなかった。思考に別のものが混ざってしまったら、それだけ、足が鈍ってしまうような気がしていたから。
そして───。
無我夢中で向かってきたにしては、恐ろしいほど長い時間に感じたけれど。それでも僕は、いつものマンションまで帰ってきていた。
それなりに年季が入ったコンクリートと、街中を歩いているとどこからともなく漂ってくるような、懐かしい匂い。全部、初めてここに来た時と変わらない光景で。
震える手で合鍵を取り出して、扉を上げる。本当はただいまって言いたかったんだけれど、気力も尽き果てて、ただドアの中に身体を滑り込ませるので精一杯だった。
「……緋彩、帰ってきたの?早かったわね」
ドアの開く音が聞こえたからだろう。部屋の奥から、鈴の声がした。そして廊下をのぞき込んで、血相を変えて僕の方に駆け込んでくる。
「緋彩!?これ、血塗れじゃない!?どこ怪我して……きゅ、救急車呼ばないと」
鈴の慌てた声で、ようやく、自分が酷い恰好をしていることに気が付いた。制服はズタボロだし、散々血の上に寝そべっていたせいで髪まで真っ赤っかで……傍から見たら、車にでも轢かれたようにでも見える恰好。
ただでさえ言わなきゃいけないことが沢山あったのに、余計、言葉を増やさなくてはいけなくなってしまった。スマホを取り出そうとする鈴の手を掴んで、息を整えながら話す。
「怪我、してるわけじゃなくて……ごめんなさい、僕、いっぱい話さなくちゃいけないことがあるの」
「え、でも、血、そんなに……話さなくちゃ、いけないこと……?」
すっかり鈴は混乱してしまったみたいで、挙動不審に、自分の服が汚れるのにも構わず僕を抱き寄せた。上着がするりと床に落ちる。本当に怪我してないのか、確かめているんだろう。
こうして抱きしめられるのも、何故か随分久しぶりのように感じた。全身の感覚がどんどん遠ざかっていくようで、今すぐにでも全部忘れて、このまま眠ってしまいたくなる。
重い瞼を無理矢理に押し上げて、混濁する思考をどうにか纏め上げる。けれどその前に、鈴が混乱から覚める。
「本当に、怪我してないみたいね……取り敢えず、血は危ないから服も一旦脱いで……ああ、顔までべっちゃりじゃない」
そう言いながら、僕の顔をハンカチで拭う。そして一番汚れていた上着を拾い上げて、「え?」と疑問の声を上げた。僕はそれが何を意味しているのかを察して、身を竦ませる。
「これ……異分子殲滅隊の制服。なんで、緋彩が?」
胸がぎゅっと苦しくなる。本当に、鈴には沢山嘘をついていたんだって、否応なしに実感させられて、その事実に今更打ちのめされる。細く息を吐いて、僕よりも高い位置にある鈴の顔を見上げた。
「ごめん、僕、鈴にいっぱい嘘ついてた」
え、と鈴が息を呑む。ここで問い返されたら言葉に詰まってしまう気がして、焦燥感に駆られる。
「鈴が心配するかもって思って言ってなかったんだけど、貴族の顔を出さなきゃいけない用事って異分子殲滅隊のことなの。それに、家出してたって言うのも嘘で、青崎家の養子っていうのも嘘で、それで……」
「ちょ、ちょっとまって、まだ、今の状況も飲み込めてないから」
本当に大切なことが中々言えないままに躊躇っていると、焦った声の鈴に口を塞がれてしまった。目がせわしなく右往左往していて、それが鈴の困惑具合を如実に伝えてくる。
「とにかく、まずは服を着替えなきゃ……色々ビックリしたけれど、緋彩、酷い顔色だし……」
手や足を意味もなくあたふたさせながらも、鈴はそう言ってしゃがみ込み、手を引いて僕も座らせた。
「沢山話し合わなくちゃいけないことがあるのは分かったけど、それよりも今は休んだ方がいいわ」
「……………」
背中を優しく撫でられて、僕は何も言えなくなってしまった。身体の不調を無視してでもここまで無理出来たのは、自分の記憶を思い出してからの、駆られるような強い気持ちが合ったからこそだったから。
けれどそれすらも鈴に優しく受け止められてしまって、なんとか無視していた色んな疲労に、一気に襲われた。そうなったらもう、立ち上がることが出来ない。
今、この強い気持ちが無かったらとても全てを話すことなんて出来そうにないのに。駄目だとは思っても、どんどん全身の力が抜けていく。
「それじゃ、取り敢えずシャワー浴びてきなさい……一人で、入れそう?」
鈴は、そんな僕の様子を見て、どこか安心したかのようにそう言った。そして半分抱き上げるような形で、僕の身体を引き上げる。さっきまで身体が重かったのが嘘のように、簡単に立ち上がることが出来た。
それでも僕はまだここで話さなくても良いのか悩んでいて、足が止まる。動こうとしない僕を見て、鈴が不思議そうに首を傾げた。
「緋彩、大丈夫?」
僕は弱弱しく首を横に振った。今の自分の迷いをどう表現すればいいのか分からなかったけれど、少なくとも、大丈夫とはとても言えないような気分だった。
「あ……」
するりと、鈴の手が伸びてきた。そして何となく予想出来ていた通りに、その手は僕の頭に触れる。触れられた瞬間、ずっしりと重く感じていた口から自然と声が漏れた。
いつも通りの優しい感触は、思い出したばかりの記憶の中とも全く同じ感触。ただの日常の一動作な筈のそれは、自分の中で凄く大きくて、特別に大切なものに感じた。
まるで、希望に溢れていたあの頃に帰ってきたような気がする。それがトドメになって、弱っていた心は全部を放り投げてしまった。温かさに身を委ねて、考えるのをやめる。
「何があったのか分からないけれど、ここにはもう怖い物はないから、大丈夫よ」
「……うん」
「今日はぎゅっとして寝ましょっか。そうしたら、きっと元気になれるわ」
鈴が、僕の手を引く。釣られるようにして部屋の奥を見ると、なんだかいつもより明るく感じた。鈴と楽しく話していた、あの白い病室の様に。
そうだ、きっとどうにかなる。だって、今は傍に鈴が居てくれるんだから。あの時と違って、ずっと傍に居てくれているんだから。鈴がそこに居てくれるだけで、僕に怖い物なんて何もないんだ。
すっと心が晴れるようだった。ああ、まずはシャワーを浴びないと。このままだと部屋中を血で汚しちゃうことになるし。そしたら、一緒に晩御飯を食べて。ああ、先に髪を乾かしてもらわないと。
その後はいつものソファーでのびのびして、テレビを一緒に見ても良いかもしれない。眠くなったら、鈴の言ったとおり、ぎゅっとしてもらいながら眠ろう。
そんなことを思いながら、僕は一歩を踏み出した。
『自分に都合の良いことばかり思い出して、良い気分ね』
ゾッとするくらい、冷たい声がした。
その瞬間、部屋の時間が止まったように何も動かなくなる。そして侵食されていくように、部屋からどんどん色が失われていく。
背後から、僕の身体を抱きしめるように、見覚えのある手が伸びてくる。凍るように冷たい全身の感覚。触れられた部分だけが、焼けるように熱い。
『私は貴方で、貴方は私』
呪文のように、その声は全てを吞み込んでいく。言葉一つで、現実を蝕んでいく。
僕も動けない。動けるわけがない。そんな僕に満足したかのように、僕を抱きしめていた手が、指先で僕の身体の正中線をなぞりつつ、這い上がってくる。
焼けるような感覚もどんどん身体を這い上がってきて、それはピタリと、喉で止まる。
『私と一緒に居て。私を忘れないで。私を愛して』
『私には貴方しか居ないの。私には貴方しか要らないの』
『私のお願いを聞いて。私の我儘を許して。私を認めて』
喉が、焼け付くように熱くなる。思い出したくも無いような、あの感覚。
『私を思い出して』
彼女が、僕の耳に唇を寄せる。そして、甘い声で囁いた。
「私、喉が渇いたの」
時間が動き出す。
僕は、鈴に引かれていた手を、逆に引き戻した。
「きゃっ!?」
吸血鬼の膂力で引かれた鈴が体勢を崩して、僕の腕の中に納まった。そのまま、導かれるようにして首筋に顔を寄せる。
「え、ひ、緋彩……?」
遠くから、名前を呼ばれたような気がした。けれど、それも焼け付くような喉の渇きの前に消えていって。
血の匂いに誘われるまま、僕は首筋に牙を立てる。
「う、あぁああ!?」
すぐ隣で、鈴の聞いたことも無いような声が上がる。それと同時に溢れてきた血液が、舌に触れた。
驚くほど甘くて熱いそれに、今まで感じたことのないくらいの酩酊感と幸福感に包まれる。傷だらけで空っぽだった心が、みるみるうちに満たされていく。
喉の奥に血液が滑り込んでいってしまうたびに、次を求めて舌を伸ばす。湿った音が鳴って、鈴の身体がビクンと震える。逃げられると思って、身体を強く抱きしめようとした瞬間。
ドンっと、鈴が全力で僕の身体を押しのけた。
力は合っても体重は軽いままの僕は、ビックリするくらい簡単に吹き飛ばされる。そのまま尻餅をつきそうになったけれど、体感が強いからか、強引に転倒は避けた。
逆に鈴は、反動でそのまま倒れ込んでしまっていた。そして、僕を見上げて、呆然と言った。
「───きゅうけつ、き?」
最初、鈴が何と言ったのがよく分からなかった。酩酊した頭が理解する力も奪い去って、何も考えられなかったから。
でも、口の中に残っていた血液も飲み乾してしまうと、その酩酊感も消え去る。そして、あとに、のこったのは。
「……え」
無意識に、自分の口元に触れる。ぬるりとした感触がして、指先には、真っ赤な血液がてらてらと光っていた。
目の焦点が、その手の奥に見えていた鈴に移る。首元を赤く濡らした鈴は、僕を───怯えた目で見ていた。
「あ……あぁ」
酩酊感も、幸福感も、全て吹き飛ぶ。全身がガタガタと震えだして、残った感情は恐怖だけ。
ちがう。ちがうちがうちがう。僕は、こんな、こんなことがしたいわけじゃない。嘘だ。鈴が、僕を、そんな目で見るわけない。一回も、そんな目は見たことがない。
鈴が、また何かを言おうとした。怯えた目で、怯えた顔で、僕に向けて何かを言おうとしてる。途端に僕は背を向けて、玄関から飛び出した。
聞けるわけがない。何を言われるか、怖くて仕方が無かった。今はただ、何もかもが怖い。自分も、鈴も、何もかもが信じられなかった。
大切な記憶。大切な過去。そんなもの、この恐怖の前だったらもうどうだって良かった。死神の手を振り払うように、逃げて、逃げて、逃げて───。
僕は、大切からも目を背けて、一目散に逃げだした。




