泡沫の
難産でした……
それから数ヵ月にかけて、急激にとまではいかないけれど、僕の体調は目に見えて良くなっていった。少なくとも、全身が痛すぎて身体を起こすことも出来ないなんて日は一日も無くなった。
相変わらず魔術学を習っていない僕に原理はよく分からなかったのだけれど、鈴曰く、余計な魔力を生成してしまったり、溜め込んでしまうのを上手く制御出来るようになってきているかららしい。
といっても僕が自分で何かをしている訳じゃなくて、手袋みたいなヘンテコな装置を取り付けているだけなのだけれど。データ収集も兼ねているらしいそれによって、僕の身体は良い方向に段々変わって行ってるらしい。
装置が完成すれば普通の人と同じような魔力制御を得られるだろうし、そうすれば自力でちゃんと魔力を制御できるようになるから、最終的にはこの装置すら要らなくなるらしい。正直、その説明を聞いてもあまり現実味が湧かなかった。
物心付いてからずっとこの状態だった僕に、普通の状態というものはどうしても想像しづらかったし、あれだけ非現実的に感じていた完治がもう時間の問題というのも、まるで別世界の話を聞いているようだった。
今でも、これは長い夢なんじゃないかと思う時がある。目が覚めたら、数年前のあの病室にまた戻っていて、鈴は居なくて、身体は同じように痛んで……与えられたつかの間の希望に、心を痛めて。
けれど、仮にそうだったとしても、僕がここですることは変わらない。鈴が呼び込んでくれた希望に縋って、自分の命を、人生を、価値があるモノだったって思えるまで、ずっと生きていくんだ。
夢が覚めるまで。
もう最後が何時だったか思い出せないくらい久しぶりに、外出した日があった。
窓から差し込んでくる日光よりも、外で浴びる日光はやけに目に染みて、足元がふらついたのを体調不良なのかと心配されたりもしたけれど、確かに自分の足で歩いた。
その日はどれくらい自分で魔力制御が出来るようになっているのかのテストも兼ねていたから、装置も付けていなかったけれど、体調はむしろ付けている時よりも良かった。その分はしゃいでしまって、周りがとても心配していたのだけれど。
残念だったのは、許可が下りなくって、あまり遠くまでは出かけられなかったことだろうか。本当は東京タワーに行きたかったのだけれど、こればっかりはどうにもならなかった。特に、鈴からも反対されてしまうと、僕は何も言えなくなってしまうし。
それでも、久しぶりの外出は楽しかった。目についたお店で買い食いしてみたり、公園でのんびり日向ぼっこしてたり、カラオケに行ってみたり。
どれも新鮮そのもので、どれも代えがたい経験だったし……隣にずっと鈴が居てくれたのも、凄く嬉しかった。時間が過ぎるのがとても早く感じて、日が暮れても全然遊び足りない。
それでまた僕が我儘を言ったりなんかして、それを優しく鈴に諭されて、不貞腐れながらも帰路に着く。そんな一日だった。
幸せって言葉の意味を、そっくりそのまま辿ったような一日。実際に外を出歩けたことで、段々この病気が治るんだということも実感できてきて、自信もついた。
浮ついた頭のままいつものベットに戻って、しっかりそこまで付いてきてくれた鈴も、もうすぐ帰る時間になる。するといつもはすんなりと出てくる「また明日」の言葉が、なかなか出てこなくて。
寂しさが抑えきれなくって、立ち上がろうとする鈴の袖を引いた。すると鈴は困ったように笑うと、慣れた手つきで僕の頭を撫でて言った
「また明日、ね」
一瞬前まで溢れてきそうになっていた色んな言葉を飲み込んで、僕は頷く動作だけで返事をした。鈴は「良い子」と言ってもう一度頭を撫でると、席を立った。
それでも寂しさは振り切れなくて、最後まで「また明日」は言えなかった。そして───
翌日に、鈴は姿を現さなかった。
「……………」
さんざんと降り注ぐ雨が、病室の窓を叩いている。それを僕はぼうっと眺め続けている。
一日も欠かすことなく数年に渡って会いに来ていた鈴が、この病室に現れなくなってから、もう一週間が経とうとしている。その事実に、丁度窓の外の光景と同じように僕の心は暗澹たる気持ちに囚われていた。
日光が雨雲に遮られて部屋は薄暗く、心境も相まってかやけに寒く感じられた。リハビリや授業にも全く集中できずに、怪我をしそうだからと予定が真っ白になったのが今日の朝。
そんな一幕があっても、僕は鈴のことが頭から離れないでいる。かつてないくらい忙しくなってしまったとかなら全然良いのだけれど、もしかしたら、事故にでもあったのかもしれない。或いは、犯罪に巻き込まれてしまったとかかもしれない。
どうあれ、とにかく心配で仕方が無かった。なのに、あちらから連絡が無いと病に縛られた僕から出来ることはなくて、もどかしい時間だけが過ぎていく。
布団を引き上げて、顔を覆う。無理な稼働に身体がミシミシと悲鳴を上げたけれど、それがどうでも良く感じるくらいには、気が滅入ってしまっていた。
そんな時、廊下を誰かが歩く音が聞こえてくる。反射的に視線を上げて、ドアの方に視線を向けた。けれど、この部屋の前を誰かが通ることなんて当然珍しくもない。
この動作も、既に何度も繰り返しては裏切られた後だった。それを思い出して、溜め息をつきながら布団の中に視線を戻そうとして。
ドアが開く。
「───鈴!」
そこから現れた姿を見て、僕は思わずそう叫んだ。
身体の危険信号も無視して、思いっきり布団を跳ね飛ばして身体を起こそうとする。すると案の定耐え切れないくらいの激痛に襲われて、無抵抗にベットに転がった。
いたた、と思いながらもう一度ゆっくり体勢を整えて、鈴の方を向く。すると鈴はもうベットの脇まで近づいてきていた。だから僕も、いつもみたいにベットの脇に座るようにして身を乗り出す。
「もう、いきなり来なくなって心配したんだからね!怪我とかしたわけじゃないの?とにかく無事で───」
そこまでまくし立ててから、鈴の反応がおかしいことに気付いた。膝に置いたままの手は何故か震えているように見えて、定位置についてから、ぴくりとも動かない。
視線を上げて、鈴の顔を見上げる。遠目には分からなかったけれど、近くで見ると信じられないくらいやつれていた。それに、僕と視線が合っているようで、何処か遠くを見ているように虚ろな視線。
「り、鈴……?」
僕の知る鈴とは遠くかけ離れたその姿に、思わずビクリと身体を震わせる。そんなに酷いことがあったのかと、声を掛けようとしたところで。
被せるようにして、信じられないことを告げられた。
「研究、続けられなくなったの」
「……え?」
その言葉の意味を、僕は理解することが出来なかった。あまりにも信じられなくて、唐突過ぎて、頭が理解することを拒む。
だって、まだ完成はしてないって、それまでにはあと数年は掛かるって、鈴はそう言っていた。それなのにここで研究をやめてしまったら、それは、つまり───。
「だから、もうここには来れないわ」
「────!!!」
続けて放たれた言葉に耐え切れなくなって、僕は鈴の身体に縋りつく。けれど、いつもなら優しく受け止めてくれる手は、震えたまま、膝の上から動かなかった。
「な、なんで!?まだ、まだ僕の病気治ってない!話したいこともいっぱいあるし、それに、それに……」
約束したのに、と。僕はそう言葉を続けようとして、喉に言葉を詰まらせた。見上げている鈴の顔が、本当に弱々しく……まるて、今すぐにでも泣き出してしまいそうで。それでも鈴は、淡々とした口調で言葉を紡いだ。
「獅現が、もう研究を切り上げるって言ったの。出資先が無くなったら、この規模の研究は続けられないの」
「分かんない……何言ってるか全然分かんない!なんで、そんな、今更」
身体から力が抜けて、鈴の膝の上に上体が倒れ込む。肺に衝撃が入って、ゲホゲホと酷い咳が出た。それでも鈴はピクリともせずに、ただそこに座っているだけで。
途端に、鈴の今までの優しさだとか言葉だとかが、全部嘘だったみたいに感じられてくる。でも、駄目だ。それだけは絶対にダメだ。ドス黒い恐怖に追われて、必死に言葉を繋く。
「嫌だ、嫌だよ……だって、約束してくれて……ねぇ、嘘だよね?だって、鈴は凄い人で、僕、ずっと───」
信じてたのに。
掠れた細い声で、最後の言葉を口に出す。けど、違う。違うんだ。僕が言いたいのはそういうことじゃないのに。
心の奥底から、黒くて汚いものが溢れて止まらない。震える喉からは、恨みのようなモノしか出てきてくれない。焦燥に焼かれた胸が痛くて、視界がぼやける。
「わ、たしだって、わたしだって……!」
ずっと淡々とした声で話していた鈴が、声を震わせて何かを言おうとする。けれどそれが形になる前に、鈴は耐え切れないとばかりに立ち上がってしまった。
強引にベットに押し戻されて、視界がぐちゃぐちゃに入れ替わる。一瞬で目が回って、けれどなんとしてでも鈴に向こうとして身体を捩った。
鈴が、ドアに向かって行ってしまう。そこから出て行ったら、もう二度と会えないんだということが肌に染みて分かった。嫌だ、と心中で悲鳴を上げながら、必死に手を伸ばす。
けれど、まともに身体を動かすことも出来ない僕の手が届くはずなんてなくて……僕の手のひらは、ただ空を切っただけだった。
「……ごめんなさい」
背を向けたまま、鈴がそう言った。そのごめんなさいは多分、約束を反故にしたことの謝罪で。僕の「信じてたのに」という言葉に対する返答で。
「違う!違うの!」
そんな風に責めたくて口にした言葉じゃなかった。なのに、その認識の差を埋めるには、今の僕と鈴の距離はあまりにも遠すぎた。
鈴が、出て行ってしまう。初めて出会った日のような唐突さで、消えて行ってしまう。それを僕は、「違う」と繰り返しながら見ていることしかできなかった。
ドアが閉まる。気力だけで動いていた身体が布団の上に落ちて、力が入らなくなる。それでも、なんの意味もない、間に合わなかった言葉だけが、口から零れた。
「いかないで……」
長い、夢だった。
全部は長い夢。有り得ない希望が見せた、奇跡という夢。
でも、ずっと夢を見続けている訳にはいかなくて……いつかは目覚めなくてはいけなかった。きっと、それだけのことだった。
だから、僕も、もう目覚めないと。




