いつか
「鈴!見て!国語のテスト100点取ったの!」
「鈴!この本に書いてあるやきそば?っていうのどういう食べ物なの?」
「鈴!この音楽凄く良かった!鈴も聞いて!」
それから数年が経って……最初の日に言ったように、鈴は本当に毎日来た。土日だろうと、祝日だろうと、明らかに顔色が悪い日でも、毎日欠かさす僕の病室に姿を現す。
鈴は優しくしてくれるし、それが本心からのものなのも分かっていたけれど……同時に、僕との関係が仕事であるのも理解していたから、それには少し驚いた。
けれど、僕に会いたいからという理由でそうしているのだと思うほど自惚れては居なかったし、多分彼女の仕事的にも利益があったのだと思っている。診察の時の表情はいつも真剣で、終えた時はいつも満足気だったし。
それとなく理由を聞いてみたこともあったのだけれど、本人は不満げに「よく周りにはワーカーホリックって言われるわ……」とぼやいていた。意味はよく分からないけれど、多分仕事熱心って意味だと思う。
そんなこともあり、最初は何か悪いことをしてしまうと関係が途切れてしまうのではないかと怯えていた僕の態度からは、どんどん遠慮というものが抜けていった。不安定な感情という面ではなく、実利という面で関係が担保されたのが、僕にとって安心感があったから。
というわけで、いつの間にか恒例となっていた診察後のお喋り時間では、僕はどんどん色んな話題をまくし立てていた。鈴は大体なんでも答えてくれていたけれど、少し苦笑いを浮かべていたようにも思う。
けどその苦笑いを表に見える形で出してくれているということ自体が、鈴も心を開いてくれていることの証拠に見えて、僕はその表情が好きだった。そのせいで、少し困らせるようなことも言ってしまっていたりもしたけれど。
「……貴方は、色んな事を話してくれるわね」
「だって、鈴がいっぱい楽しいことを教えてくれるから」
あれだけ怖かった『知る』という行為も、どんどん楽しくなっていった。それが、この身体だと一生をかけても手の届かないことだったとしても、頭の中で想像するだけで楽しかった。
鈴の口から語られる知識は、教科書のような無機質な文字列としての知識ではなく、情緒が沢山籠った生きている知識だったのもそれに拍車をかけた。楽しそうな語り口は、まるで自分でも体験したみたいに感じられたから。
この病室から動かなくたって、時間が無くたって、自分の世界は広げられるのだと知った。窓の外に見える景色が、ただの絵のようには感じなくなってきて……嬉しかった。
「あのでっかい……塔?あれって何?」
そんな中で、自然と出てきた一つの話題があった。窓の外に見える、遥か遠くで霞がかった姿を見せる赤い塔。幾度も見た光景の中でも、一番印象に残っていたのはそれだった。
「東京タワー。建てられた理由は異分子対策の偵察塔兼電波塔だとか、そんな生々しい理由なんだけれど……最近だと、もっぱら観光地ね」
「へぇ……別の都市からも、人が来たりするの?」
「どうかしらねぇ。渡航費、高いから……でも、それに見合うだけの価値はある場所だと思うわよ」
鈴がそういう切り口で話し始めるときは、そこに行った時の体験談を語ってくれる時だ。僕はうんうんと首を振りながら、次の言葉を待つ。
「あの天辺の辺りにね、展望台が付いてるのよ。中にエレベーターがあって、一般客でもそこまで登れるんだけどね……そこから見える景色が、とっても良くてね」
鈴が頬杖を突いて、どこか遠い目をしながら語る。ふと、空いている窓の外に視線を向けると、今日もその塔は見えていた。言われてみると確かに、展望台のような膨らみが見えて、ここからでも遥かに高い場所にあるのが分かる。
「こればっかりは、言葉では言い表せないんだけど……みんなが積み上げてきた景色っていうか、そういうのにただただ圧倒されてね……人生で、一番の感動だったわ」
「…………」
鈴が何かをそこまで手放しに褒める姿を初めて見て、僕は思わずじっと見入ってしまった。すると鈴の意識が僕に戻ってきて、目と目が合う。
「どうしたの?」
「いや……そんなに、凄い景色だったんだなって」
頭の中で想像しようとしてみるけれど、どうにも、鈴がそこまでべた褒めするような光景と思うと、中々納得いくようなモノを思い浮かべることが出来なかった。首を捻って、うんうん唸る。
「うー、ちょっと想像つかないなぁ……」
「あればっかりはねぇ。貴方のその柔らかい頭でも、ちょっと相手が悪いわね」
鈴さんが楽しそうにけらけら笑う。それが悔しくって頭から煙が出そうなほど想像力を動員するのだけれど、考えれば考えるほど、思い描く光景に納得できなくなった。素直に諦めることにして、ベットに倒れ込む。
「そっかぁ……悔しいなぁ……」
「そう言わなくても、いつか連れて行ってあげるわよ」
帰ってきた言葉はいつも通りのものだったのだけれど、なんだか声の調子がおかしい気がして、僕は鈴を見る。少し考えて、違和感の正体に気付いた。いつもだと冗談じみた感じというか、希望的観測が入ったような言い方なのだけれど……今日は、やけに真剣な口調だった。
「鈴、なにかあった?」
「……え、私、変なこと言ったかしら?」
「そうじゃないけど、話し方というか、普段と違うなって」
僕がそう言うと、鈴は口に手を当ててうーんと悩む。そして視線が右へ左へと泳いだ後に、溜め息を一度ついた。
「鋭いなぁ……」
「もしかして、嫌なことだった?」
「そうじゃないんだけどね……むしろ、良いことかな」
鈴が目を細めて、僕のことを見る。そして突然手を伸ばしたかと思うと、僕の頭を撫でた。ちょっとだけ驚いて目を瞑り、ゆっくり開くと、想像よりちょっとだけ近い距離に鈴が居た。
「実はね、昨日……研究に、進展があったのよ」
「───!それって」
ふふん、と鈴が自慢げに笑う。今まで一度もなかったそれに自分の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じながら、僕は次の言葉を待つ。
「私、できもしないことを口に出す人は嫌いよ。それを踏まえて、言ってあげるわ……貴方の病気、治るわよ」
「あ……」
一気に色んな想いが溢れてきて、目の前がぐしゃぐしゃになる。思わず身体を起こして、しかし急な負荷に耐え切れず、鈴の方に身体が倒れ込んでしまった。
「あっぶな!もう、これからっていうのに無茶しないの」
「ごご、ごめんなさい……」
鈴が綺麗にキャッチしてくれたけれど、今のはかなり怖かった。震える声で謝罪をすると、「全く……」と呆れたような声で言われて、そのままぎゅっと抱きしめられる。
「治るって言っても、まだ時間はかかりそうなの。取っ掛かりは間違いなく出来たし、症状を緩和して延命する方法も見えてくると思うから、絶対に治せるけどね。ただ、それまでに別の原因で死んじゃったら元も子もないんだから」
「うん……うん」
他にも色々と言うつもりだったのだけれど、どうしても言葉が喉に詰まって出てこない。代わりに涙が溢れてきて、隠す様にぎゅっと鈴に顔をくっつける。
「症状が緩和させられたら、多少は外にも出歩けるようになると思うわ。いつか連れて行ってあげるの『いつか』は、結構すぐになりそうよ」
「うん……!」
隠しても、泣いているのはバレているようだった。鈴の声が段々柔らかくなっていって、優しく指で髪を梳かれる。ずっとそうされていたいって思うくらい、幸せな時間。
「随分と、待たせちゃったわね。これでも結構急いだほうなんだけれど、思いのほか手こずった事実は否めないわ……」
僕の言葉が少ないからか、徐々に焦るようにして口数を増やして、遂には自罰的なことまで口走る鈴。それが面白くって、少しだけ笑い声を漏らしてしまう。
顔を鈴の身体から離して、しっかり目と目を合わせた。僕がなんで笑ったのかがよく分かっていないのか、珍しく、困惑したような表情が目に入る。
それがまた面白くってふふっと笑うと、目尻の涙を親指の腹で拭われた。ぼやけていた視界が晴れて、普段よりも、やけに部屋が明るく感じられる。
「……鈴」
「何?」
「ありがと」
鈴が、一瞬だけキョトンとした。その後、僕と同じようにふふっと笑った。
「ええ、どうしたしまして」
いつかの約束。




