希望
書いてて楽しかった。
「…………………」
「…………………」
気まずい沈黙が流れた。僕からすると睨まれているとしか言いようのない状況に、もう何もなかったことにして頭から布団を被ってやろうかと思っていると、また彼女……鈴と名乗った人物が、口を開いた。
「自己紹介、返してくれないのかしら?」
先ほどよりは幾分か和らいだ声で、そう聞かれる。ちょっとだけ布団を下ろした僕は、何とかちゃんと鈴さんの目を上目で見つつ、言った。
「……桐生、×××、です」
「うん。あ、じゃなくて、えーと、その、良い名前、ね……?」
そう聞かれても……と僕は心中で呟く。そしてまた、痛々しい沈黙が訪れた。鈴さんがおもむろに項垂れて、額に手を当てる。そしてぼそりと、「やっぱり向いてないわ……」と呟いた。
「えぇと……取り敢えず、手を出してもらえるかしら」
「手……?こう?」
どこか諦めたかのような顔で、こちらに手を差し出しながら鈴さんが言う。一体何だろうと思いつつも、恐る恐る差し出された手のひらへ自分の手を置いた。
少しひんやりする。本当だったらドギマギするような状況なのかもしれないけれど、緊張しているからか、自分でもビックリするくらいそういう気持ちは湧いてこなかった。そんな僕をよそに、鈴さんは手相占いでもしているのかと思うほど、僕の手をじっと観察している。
んー、と鼻を鳴らして、空いた片手を口元に当てて何やら思索する鈴さん。そして溜息をひとつすると、僕の顔まで視線を上げた。
「貴方、ここに魔力流してみなさい」
「え、いや、お父さんが、魔術はダメだって……」
「魔術までなんて言ってないわよ。ちょっとこの手に魔力を集めなさいって言ってるの」
「え、魔力を動かすのが、魔術じゃないの?」
僕がそう口に出すと、鈴さんはすさまじく微妙な表情を浮かべた。そしてあーあーうーうー唸りながら何か悩んだかと思うと、「そういやそうだったわ……」と独りごちる。
「魔術学も、習ってないんだってね……」
「そうだけど……その、鈴さんは新しい先生、なの?」
聞いてはいなかったけれど、もしかして魔術学の授業が今日から入るのかと思い、そう聞く。外れているにしてもそこまで大きく的外れではないだろうと思って口に出したのだけれど、鈴さんのキョトンとした顔で、自分が素っ頓狂なことを言ったのだと悟った。
「は、何も聞いてないの!?あなたのお父さんからも!?」
「ひぅ!ごごごごめんなさい!!」
突然の大声に飛び上がるほど驚き、反射的に謝りながら布団の中に身を隠す。やっぱり怖い人だったんだと泣きそうになりながら身を震わせていると、鈴さんが「あ……」と声を漏らして狼狽する。
「あー、えっと、あんたに怒ったわけじゃないのよ。ちょっと驚いただけで」
慌てたように早口でそう並び立てる鈴さん。その様子から本当に僕に怒っているわけじゃないのが伝わってきて、僕は慎重に布団から顔を出す。
「……僕も、ビックリした」
「それは、うん、謝るわ」
鈴さんはほっとしたようにそういうと、んんっと咳払いをして佇まいを正した。そして白衣の内側から一枚の紙片を取り出すと、人差し指と中指で摘まんで、表面をこちらに見えるように掲げる。
「私はまぁ、ざっくり言うと魔術学の研究者よ。それで、何と言うか……貴方の病気を、そういう観点から見て得られるものはないかって、貴方のお父さんから送られてきたの」
「お医者さん?」
「違うけど、そっちからしたらまあそんなもんでしょうね」
ところどころ違和感はあるように感じたけれど、大方は納得できた。要するにさっきまでの一連の流れは診察の続きで、今日からはこの人も定期的に診察に来る、ということだろう。
それが分かった途端、一気に心が冷え切った。多少変な行き違いはあったみたいだけれど、新しいお医者さんが来ること自体は珍しくないし……その後の流れは、いつも同じだったから。
「そっか。それじゃあ、無駄足だったね」
「ん?それまたどうして?」
いきなり向けられた突き放すような言葉に、鈴さんが首を傾げる。その何処か無邪気な動作に、僕は自分の心の黒い部分が滲み出ていくのを抑えられなかった。
「みんな、必死になって検査して、何ヵ月も診察しに来て……それで、匙を投げて、もう来なくなるから。何も分からなかった、って」
自分の放った言葉が、とても意地悪なのは自覚してる。それでも僕は、口を突く言葉を我慢することが出来なかった。
「絶対に治るとか、諦めないでとか、自分を信じて欲しいとか言って。どうせ、すぐにどっか行っちゃうのに」
僕が一番心から望んで、一番最初に諦めたもの。この病気が治って、僕を縛り付ける全部が消えちゃって、自由になって。そんな、儚い幻想。
新しいお医者さんが来る度に僕に向けてくる言葉は、その諦めてしまった時の痛みを無理矢理ほじくり返すものばっかりだった。そんな心の闇をこの人に向けて吐き出してしまったのは、何処か憎めないところのあるこの人の口から、同じ言葉を聞きたくなかったからかもしれない。
今度こそ本当に怒られるだろうな、と今更後悔しながら目を伏せる。けれど返ってきた音は荒々しい怒声ではなく、穏やかで軽い調子の声だった。
「別に、どうだっていいじゃないそんなこと」
僕は少し驚いて、目をパチクリさせて鈴さんの顔を見た。文字だけで見ればまるで突き放すような、他人事だからこその言葉のような、そんな内容だったのだけれど……自信ありげな笑みと、優しさが滲んだ声は、しっかりと僕を見据えていた。
「できもしないことを偉そうに語る無能と同じレベルに自分を落とし込むから、そんな負け犬じみた思考がへばりつくのよ。まあ、無能にばかり囲まれていたみたいだから、そうなるのも無理はないわね。そこばっかりは同情するわ」
「え、えぇ……?」
とても人前では言えないようなとんでもない暴言を、人前でも普通に言い出しそうなくらい堂々と語り始めた鈴さん。そこまで胸を張って語られると、もう嫌味にすら聞こえない。
「賢い生き方を教えてあげるわ。口だけの無能なんて、何かの偶然で成果持ってきてくれればラッキー程度に思っておくのよ。本当に欲しい物や、諦めたくないことには、自分で手を伸ばすの」
鈴さんが、僕に向けて手を伸ばす。転んでしまった人を引き上げるようでも、壇上で演説をする為政者のようでもあった。ただ間違いないのは自信に満ち溢れていることで、それが酷く眩しかった。
「まあ、もしかしたら一生掛かっても手の届かないような難題がそうなのかもしれないけれど、それでも、死ぬまで手を伸ばし続けるの。それすらやめてしまったら、もうその時点で死んでいるのと一緒よ。そうでしょ?」
「─────!」
それは、ある意味では残酷な言葉だった。あの諦める痛みを、手を伸ばし続ける痛みを、知る分だけ増えていく『希望』という痛みを、死ぬまでずっと味わい続けろと鈴さんは言ったのだ。
もしかしたら彼女は、挫折だとかを知らないからこそ、希望に痛みが伴うことを知らないだけなのかもと思った。けれど、もし本当にそうだったとしても、希望を抱くことすらやめてしまったら死んでいるのと一緒、という言葉に、僕の心は震えた。
希望を出来るだけ遠ざけて、自分から少しも動こうとしない今の自分を見る。病的に白い腕が、肌が、まるで白骨に見えた。短いにしてもまだある筈の命が、そこでは無為に消費されていた。
恐る恐る腕を指でなぞり、自分の手が震えていることに気付いて……そこまでしてようやく、僕は本当に怖いことに気付いた。
怖いのは、痛いことじゃない。僕はただ、死にたくなかった。生まれてきて、短命のせいで何もできずに、無意味に死ぬのが怖かった。だから、『死んでいるのと一緒』という言葉が、どこまでも深く胸に刺さった。
気付けば、ぽたり、ぽたり、と自分の腕に水滴が落ちていた。どうしようもなく喉が震えて、縋るように鈴さんの手に捕まる。
「僕……死にたくない。死にたくないよぉ……!」
口から、自然と希望が溢れた。はっきりとそれを意識すればするほど、胸が痛くて、涙が溢れる。でも、大嫌いだったこの痛みも、生きている証だと分かったら愛おしく思えて、何度も、何度も口に出す。
「馬鹿ね、そんなの当たり前じゃない。変に背伸びするから、そんなになるまで溜め込むのよ」
そんな僕を見て、鈴さんは空いた手を伸ばして頭を撫でてくれた。かけられた言葉は呆れたような口調だったけれど、それも今は心地よかった。
頭を撫でる手は、露骨に慣れていない手つきだった。けれど、それが逆に鈴さんの優しさを表している気がして、僕は涙が枯れるまで、鈴さんの優しさに甘え続けた。
「……ぐすん、いきなり泣いて、ごめんなさい……鈴さん……」
「子供がそんなことを謝るんじゃないわよ。私が悪者みたいじゃない」
たっぷり一時間はぐずって、僕はようやく平常心を取り戻しつつあった。その間ずっと頭を撫で続けてくれた鈴さんには本当に、いくら感謝しても感謝しきれない。
最初辺りのやりとりを思い返してみるに、鈴さんは多分、こういうことは苦手だと思う。だから申し訳なかったのだけれど、そこは大人らしく返されてしまった。
「それと、わざわざ名前に『さん』は付けなくていいわ。貴方みたいな子供にされても、むずかゆいだけだし」
「じゃあ……鈴」
「ええ、それでいいわ」
その後は、鈴が帰らなきゃならない時間まで、ずっと雑談をしていた。本当だったら診察に充てる時間だったようなのだけれど、どうせ明日から毎日来るのだから誤差だろうと、鈴が言ったから。
鈴が帰ってからも、後から来た看護師さんが涙跡に驚いてひと悶着あったりなんかもしたけれど、全部纏めて良い思い出で。
それが、鈴と初めて会った日の記憶。
メインヒロイン……。




