回想
少し短め
痛い、熱い。痛い痛い。
けれど、吸血鬼の身体は痛覚が鈍感で、病に侵されてた頃の痛みに比べれば、耐えられる程度の痛みだった。内臓を搔き乱される不快感も、喉にこみあげる血塊も、酷く熱い傷口も……結局、痛みが伴わなければその程度。
なのに、身体を起こすことが出来ない。損傷もたちまちのうちに癒えて、痛みも乗り越えられたのに……ただ、全身から感覚が消えて、動くことが出来ない。
ふと、視界いっぱいに写っている鮮烈な赤に意識が引き寄せられる。全部、全部、自分から流れ出したモノだ。きっと、人間なら数回は失血死しているほどの量。
それらは無秩序に、溢れたままに部屋の床を伝って、円状に広がっていった。僕は夢現な頭と、掠れた視界でソレを眺め続ける。ずっと、ずっと、ずっと。
にわかに部屋が騒がしくなった後も、僕はずっとそうしていた。とにかく頭がぼんやりとして、何かを考えるのが億劫で、一生そこで伏していることが心地いいと言わんばかりに。
ただ、広がっていく血を眺めて、眺め続けて……そして、鮮やかなその水面に、部屋の光景が反射されて映る。
刀香が、戦っていた。僕の胸を貫いた吸血鬼と、激しく打ち合っていた。ぶつかって、離れて、傷を負わせて、それで……。
「…………!!!」
刀香が、蹴り飛ばされる。霞がかった頭が、一気に冷めていく気分だった。
こんなところで寝ている場合じゃない。今もずっと、刀香は戦っているんだ。それなのに僕がずっと寝ていていい訳がない。
視界が鮮明になり、意思が身体に宿った。しかし、何故か、依然として身体に力が入らない。まるで最初から動かないものであるかのように、感覚だけが綺麗に抜け落ちてしまっている。
「……ぅ、ああ」
それでも必死になって全身を捩ると、頭だけが僅かに動いた。髪が、顔が自分の鮮血に汚れて気持ちの悪い音を立てる。がむしゃらに首へ力を籠めると、しゃがれた声が漏れた。
そこで、ようやく身体が動かない理由に気付く。当然だけれど、僕にとっては当然ではなかったから気付かなかったこと……いや、気付かないようにしていたこと。
「の、どが……」
血が、足りない。
喉が焼け付くように乾いて仕方がない。如何に吸血鬼の能力を使わずに燃費の良い生活をしていたとしても、一滴も吸っていなかったんだから。
それに対して、僕から溢れた血はどれほどになるだろう。無秩序に広がっていく鮮血は、もう自分のモノではないということを、途切れた繋がりが教えてくれる。
それでも……それでも、動かないわけにはいかないんだ。外周調査の後悔が、目の前で惨殺されたあの人達の姿が、何度も何度もフラッシュバックする。
まず、血を操ることで床に散らばったそれらを搔き集めようとした。けれど身体と同じように、能力も最初から存在しなかったかのように動かない。早々に諦めて、唯一動く頭部に意識を集中させる。
少しづつ顔の角度を変えながら、解決策を探る。とにかく、血を補充できれば、それで……。
そして、自分の腕を視界に入れた瞬間、悍ましい考えが頭をよぎった。
血なら、ずっと目の前にあった……首だけが動く範疇で届く距離に、これ見よがしに。
理性が拒絶した。全て漏れ出したのだからこうなっているのだ。なら、その思い付きに意味はない筈だと。それでも僕が吸い寄せられるように口を開いたのは、僕の中の吸血鬼が、身に覚えのない知識が、正解だと嘯いたから。
酷く牙が疼く。その衝動を埋めるように、僕は自分の腕───白磁の肌に牙を立てた。
「───はい、これで今日の定期診察は終わります」
知らないような、懐かしいような声がした。導かれるようにして、僕はそっと目を覚ます。視界に入った光景は、随分と懐かしい白一色の部屋だった。
「……えっと、今日は早く終わった、ね?」
「×××様が成長していらっしゃる証拠ですよ」
僕はベットに上体を起こした状態で居て、その脇には看護師さんが立っている。事務的な間柄とは言え、それなりに長い付き合いだった筈なのだけれど……相変わらず、彼女の声は少し冷めているように感じた。
それが少しチクリと胸を刺して、すぐに忘れる。痛みの原因は分からなかったけれど、分かっても仕方がないものだとどこかで感じていたから。
そして、望んでも仕方のないものは、すぐに忘れる。楽でいるためにはそれが一番早かったし、それ以外の対処法を僕は知らなかった。手に届かないモノが多いと、知る分だけ痛みが増えてしまう。
早くからそんな現実を悟っていた僕は、あまり俗世の知識を付けようとは思わなかった。暇つぶしに読む本も、現実味の薄い、ファンタジーばかりを手に取った。
分かりやすい現実逃避。けれど、誰もその現実逃避を責めようとはしなかった。それは僕が貴族の令息だからか、あるいは……短命を前にして現実逃避を図る姿に、同情したのか。
だから僕にとって世界とは、この病院の一室で完結していた。常人の一生からすると狭すぎるその世界は、僕にとって充分な広さで……わざわざ世界の外に飛び出そうだなんて考えなかったし、飛び出したところで、何かがあるとも思わなかった。
「ああ、そういえば、今日は×××様に紹介しなければならない人が居るのですが」
「紹介……?僕と知り合ったって、なんにもならないと思うけれど」
「それが、桐生獅現様のご意向のようでして……私も、詳しいことは存じません」
けれど、変化はいつも外から来るもので。
不可解な展開に首を捻っていると、外界と繋がる扉は、いとも簡単に開かれた。そしてつかつかと入ってきた人物は、真面目っぽい表情を浮かべた綺麗な人だった。
可愛いというより、美しいだとかの表現が似合うタイプの容姿。背中までありそうな艶のあるロングの髪と、モデルのようなスタイル。釣り気味の目が真面目な表情と合わさって、少し怖そうな印象だった。
怖い人は嫌いだ。僕は早々に委縮してしまうと、布団の中に半分顔を隠す。看護師さんは若干呆れたような顔を浮かべつつも、何も言わずに病室から出て行ってしまった。
あんまりな対応に僕が唖然としていると、その人は気にする様子もなくてくてくとこちらに近づいてくる。そして遠慮する様子もなく看護師さんがさっきまでたっていた場所に来ると、壁際に置いてあった椅子を引っ張ってきて座った。
「…………」
今すぐにでも逃げ出したい気分だったけれど、追いかけっこをするにはこのベットの上は狭すぎる。観念した僕は目から上だけを布団から出した状態で、その人をじっと見つめた。
お世辞にも丁寧とは言えないような姿勢で座っていた彼女は、こっちを観察するように幾らか視線を向けた後に、平坦な声で自己紹介をした。
「初めまして。私の名前は柊、鈴。今日から宜しく」
「…………」
宜しくとは、何を……?
心の底からそう思ったけれど、委縮していた僕に、それを口に出す勇気はなかった。




