月影
獅現が、扉を抜けて逃げ出していく。由々しき事態ではあるけれど、そちらに意識を向けていられるほど余裕のある状況でないのは確実だった。
あれを逃がしたことの問題点を考えるのも、対策を練るのも、全ては後回しだ。今はただ、切っ先の先にいる吸血鬼を倒すことにだけ全神経を集中する。
通常の吸血鬼であれば、速攻で切り捨てて獅現を追うという手に出ただろう。だが、目の前の吸血鬼には、その安易な案をすぐに切り捨ててしまうほどの圧があった。
視界の隅で、未だ床に伏している緋彩を見る。外見上、傷は既に癒えているように見えるが、起き上がる様子はなかった。痛みによるショックで気絶してしまったのか、はたまた他の原因があるのかは、今のところ分からない。
まだ戦闘訓練を施したわけじゃないが、彼女の支援があれば間違いなく優位に立てていたはずなので、少し歯がゆい。だが、一人で吸血鬼に挑むのには慣れていた。
「……本当に、ああ、本当に忌々しい巡り合わせだ」
「…………」
女性型にしては低い声で、その吸血鬼が言葉を放った。呼吸の一つも乱すつもりがなかった私は、無言で構えて静止を維持する。
「あの時、殺しておけばよかったかな……いや、きっと、別の替えが同じ場所にいたろうね」
意味深な言葉に眉をひそめた瞬間、吸血鬼の姿がブレる。瞬間、私も目を見開いてその動きを追った。いつのまにか、手にしていた真紅の杭は消え去っていた。ということは、武器の生成と共に攻撃が来る。
私の予想をなぞるようにして、紅の残光が薙ぎ払うようにして接近する。不意を突かれた初撃と違い、今度は避けるのではなく、攻撃の軌道に刀の切っ先をそっと添えた。
そして空を切るように私も刀を薙ぎ払う。金属の触れ合う僅かな音だけを残して、吸血鬼の生成した武器───真紅の槍を、片手だけで背後へと受け流す。
空いた片手で、太腿に装着して隠していたホルスターを開く。そして魔力を送り込みつつ、『展開』と起動の合図を口にした。すると中から破邪符が飛び出していき、私の周りに展開される。
そして槍の引き戻しに合わせて踏み込む。リーチのある相手に対する回答は、いつも一つだけだ。懐に潜り込んで、首を跳ね飛ばす!
しかし吸血鬼は槍を引き戻すのではなく、血液に戻して手元に再展開した。経験則だと、こうなった場合盾を作り出してくることが多い。そうなれば、広げた分密度の薄い血液ごと切り裂いてやれる自信があった。
だが予想は裏切られ、現れるのは再び真紅の槍。そして今度はフェンシングの様に、突進する私に向けて高速の突きを繰り出した。
寸でのところで見切り、身体を捻じる。完全には避けきれずに、頬には一筋の赤い線が走った。更に無理な回避行動によって体勢の崩れた私へ、追撃の蹴り。
吸血鬼の蹴りだ。まともに受けるわけにはいかない。絶体絶命の状況で───展開した破邪符の一つに魔力で指令を下すと、私の足元で爆発が起きたかのような衝撃が生まれた。
「はぁ!?」
正面からは驚愕の声。ミシリと身体が軋むような音を気力で捻じ伏せ、身体が鋭く浮かび上がる。勢いそのままに、一瞬前まで私が居た場所を蹴り抜いて動けない吸血鬼に一閃。
肉を断つ感触と、苦悶の声。だが首を狙っていた斬撃は、無茶な体勢から狙ったせいで肩に裂傷を刻むに留まった。焦るように、吸血鬼は私から距離を置こうとする。
逃がさない。次の破邪符に命を下し、まだ空中に居た私は弾丸のように弾き出された。再び、驚愕した顔がドンドン接近してくる。
だが初撃ほど不意は付けなかったらしく、しっかり槍を構えて振るった刀を受け止められる。チッっと舌打ちをして、相手の押し返す力を利用して一度背後に飛んだ。
すると衝撃波でまた飛来することを警戒してか、吸血鬼は私に直線に槍を向けて構える。宙を舞いながらそれをみた私は一言、『起動』と呟いた。
聞こえたらしい吸血鬼が腕に力を込め、しかし私の身体は射出されない。代わりに、接近した時奴の足元に仕掛けておいた破邪符が衝撃を発する。
「──────!!!!」
怪力といえど、体重は所詮人並み。不意打ちで空中に叩きあげられた吸血鬼は身体の制御が効かず、隙だらけの姿を目の前に晒した。
この混乱の最中では、霧化も間に合わない。獲った、と確信して、できうる限りの最高速で踏み込んだ───瞬間、私と吸血鬼との間の空間が不自然に歪んだ。
「なっ!」
見たこともない現象に、思わず声を上げる。だが、最高速で踏み込んだ身体は急転を許さない。破邪符も、この速度では起動が間に合わない。
そして歪んだ空間に踏み込み───確かに吸血鬼が居た場所に方向へ突撃していた私の身体は、何もない方向へと進路を捻じ曲げられていた。全力の袈裟切りは、空を切る。
咄嗟に防御態勢を取った瞬間、横合いから槍による薙ぎ払いが飛んできた。ギリギリで刀身を使い受け止めるも、籠った剛力は受け流せず、右腕が強烈に殴打される。
だが、ただでは喰らわない。攻撃が飛んできた方向へ展開していた破邪符を出鱈目に飛翔させると、全て起動した。幾つかは手応えがあり、同時に苦悶の声が上がる。
蹴りの衝撃で持っていかれた体幹を無理矢理に正し、正中線に刀を構え、蹴られた右腕の具合を確認するために力を籠める。相手もがむしゃらに繰り出した一撃だったのだろう。少し痛みはするが、戦闘には全く支障のない範囲の打撲傷だった。
吸血鬼も、しっかり床に着地して槍を構え直しているところだった。肩につけた裂傷は、既にあらかた癒えてしまっている。そしてこちらを真っ直ぐ見据えると、口を開いた。
「ああ、全く、無茶な戦い方をするなぁ。狂犬って仇名に相応しい化け物っぷりだ」
「……吸血鬼風情に、化け物呼ばわりされる謂れはありませんね」
先ほどの空間を捻じ曲げるような技の正体が掴めないから、探りを入れる意味も含めて、私はその会話に乗ることにした。こちらが返事したのを見て、吸血鬼がふっと鼻で笑う。
「私達からしたら、お前たちの方が余程怪物だ。力はともかく、その精神性がね」
「随分と、口の利く吸血鬼ですね。まともに会話が出来る種族だとは思っていませんでしたが」
「私は特別製だよ?そこいらの木偶にすら劣る愚図と一緒にされたくないなぁ」
特別製。その言葉に偽りはないだろう。他の吸血鬼では見られない正体不明の技に、語彙から感じる知能の高さ。宿している魔力の質に、反応速度と判断力も……どれか一つでも欠けていれば、首を断てていた筈だから。
「なんのつもりで白銀に化け、獅現の元に?」
「それを私が教えてやる理由はないなぁ。ま、どうせもう少しでお前も知ることになるよ」
「もう少しで?一体、何を企んで───」
「そんなことはどうでもいい。どうでもいいんだよ」
突然言葉を被せてきたかと思うと、吸血鬼の様子がみるみるうちに変容していく。白銀に化けていた時と同じような飄々とした態度が一瞬で鳴りを潜め、怒りで震えている、としか表現できないような表情になっていく。
あまりにも歪な精神構造。ようやく、吸血鬼らしい部分が浮かび上がってきたというべきか。多少でも会話が通じていると思えたのはやはり勘違いでしかないのだと、心の中で自分を戒めた。
「お前、姫の……あの吸血鬼に、何をした!」
ギシリギシリと、恐ろしく強靭であるはずの真紅の槍が、持ち主の握力で悲鳴を上げる。感情任せに叫び散らかしているせいか、口にした内容はいまいち要領を得ない。
姫、と言っている相手は、この場にいる吸血鬼が二人しか居ない以上緋彩のことなのだろうが……何をした、とは?緋彩に何かをしたのは、そちらだろうに。
「姫、とは?貴女の言葉の意図が掴めませんね」
「ふざけるな!お前が連れていたんだろうが!そして、お前を、庇った!」
「それが、貴方が喚き散らすほどおかしいことだと?」
「ああ、ああ!おかしいさ、おかしいに決まってる!決まっているだろうが愚図め!」
遂には片手で乱雑に頭をガリガリと引っ搔き始めながら、吸血鬼は叫び続ける。得体のしれない狂気のような光をその目に宿して。
「姫は、姫は確かに蘇ったんだ!そして、そして……姫が、ニンゲンの味方をするはずがないんだ!!!」
そこで私はようやく話の流れが見えてきた。この吸血鬼は恐らく、今日、今ここで、緋彩が吸血鬼であることに気付いた。そして、自らと同じように人間に擬態していると思ったのだろう。実際に残っている人格は、桐生×××の方なのに。
緋彩がしていた話を思い出す。緋彩の中にいる吸血鬼は確か、自らを吸血鬼の始祖と名乗る、アンセスターと呼ばれた存在だったらしい。だから吸血鬼の姫……吸血姫、ということか。
蘇ったというのは何のことだか知らないが要するに、ここ、東京に侵入した後はぐれてしまっていたのだろう。そして目の前の吸血鬼……偽白銀は、どうしてもすぐに合流しなければいけない理由があった。
それなら私から始末しようとした理由も分かる。その後正体を現して、合流しなければならなかった何かを果たそうとしたのだろう。しかしその考えに反し、緋彩はまるで自分の敵のような行動を見せたと。
緋彩のあの状態は、吸血鬼側としても異常事態ということか。私がそう考えを纏めている間も、偽白銀はもうこちらが返事せずとも一人で延々と喚き続ける。
「ああ、本当に、お前さえいなければ……お前さえいなければ……私が、姫の御身体を傷付けることになるなんて……それに、傷は癒えている筈なのに、何故かお目覚めにならない……これも、これもこれも!お前らが何かしたんだろう!そうに違いない!やはり、お前はあの時殺しておけばよかった!!!」
見当違いの喚きはともかく、聞き逃せない言葉が一つあった。戦闘が始まる前にも口にしていた、意味深な一言。
普通に考えれば、今日以外にも白銀として不意打ちが出来た場面があったということだろうけれど……それにしては、言い方に違和感を感じる。
「あの時……?生憎と、貴女とは初対面ですが」
「はあ?初対面、だと……ああ、そうか、お前、忘れてしまったのか」
憎悪と憤怒に歪んだ顔が一転、意地の悪い、うすら寒い物に変わり……私はそれを見た瞬間、ぞわっと全身の鳥肌が立った。
忘れる。忘れる。いや、そんな筈がない。忘れるわけがない。今になっても夢に見る。ずっと、ずっとずっとずっと、それだけが私の戦う理由だった。忘れるはずがない。
「何ていったか……ああ、月影、だとかいったっけ」
偽白銀がその名前を……私が捨てた家名を口に出した瞬間、自身の予感が間違っていなかったと確信して柄を握り締める。
「その名前みたいに、月が陰っていた夜だったなぁ。それでなんだか赤く見えて───」
「よく、分かりました。もう黙りなさい」
良くないと思いつつも、自分の感情を抑え込めることが出来ない。
正直、もう、他の誰かに狩られていたかと思っていた。或いは、思い出せないまま切り裂いていたのかと。けれど、怨敵は、家族の仇は、これ以上ないくらい明確に、私の敵として目の前に立っている。
ああ、憎くて仕方がない。それと同時に、仇討の機会を得られたことの歓喜も体中を走る。戦う時に相応しくないグチャグチャの精神状態だが、それに相反するように、蒼白く光る魔力だけがやけに冴えていた。
─────殺す。
情報の抜き出しだとか、正体不明の技だとか、そんな考えは軽く吹き飛ぶ。ただ、殺意だけを剝き出しにして。
驚くほど身体が軽かった。余裕顔で滔々と語っていた偽白銀が、目を見開き、慌てるように動き出した。しかし、過度の集中状態に入った私にとってそれは間抜けなくらいゆっくりに見えて。
刀を引き絞り、振る。すべてが遅く感じる世界で銀閃だけが等速で首を刈らんと駆けていき───
切り裂く直前、偽白銀は巨大なナニカで吹き飛ばされ、私の視界から消えた。
Tips:破邪符
.使用者が自らの血液で魔術式を描くことで作られる魔導具。単純なモノに限るが、ある程度までなら自分の血液を導線として、離れた場所に魔術を行使できる。




