帰宅
夜も深くなってきていたが、変わらずエンジンの唸り声がどこからか響いている。都会の喧騒は夜を無視して、表通りには人工の太陽が多数輝いていた。
それでも暗闇は幾つも出来上がる。裏通りであったり、ビルの陰であったり。はたまた視界が通りずらい場所であったり。
僕はそういう場所を縫うように、点々と渡りながら進んでいた。赤いランプはいつのまにか消えていたが、異分子の気配が現れた夜に、道端を徒歩で行く物好きは居ない。それらが相まって、僕の姿が人に見られることは無かった。
ふと、自分の身体を見下ろす。病的なまでに白くて、華奢な肢体。そしてなにより、目が痛くなるほどの赤で飾られたドレスは、都会の夜にはあまりにも目立ちすぎる。
必然、僕は極力人の目に入らないようにして行動しなければならなかった。悪目立ちして、また異分子殲滅隊に狙われ続けたら、少なくとも生前のような生活は望めないだろうから。
「……といっても、生前に良い思い出はあんまりないんだけど」
一人の寂しさに吐き出した呟きは、誰の耳にも捉えられず、闇に中へ吸い込まれて消えた。思わず溜め息をつきそうになって、ぐっとこらえる。
解決しないといけない問題は山ほどあって、憂鬱に浸っている暇はないのだ。それに、僕だってアテもなくさ迷っているわけじゃない。
ビルの屋上から見た景色では気づけなかったが、降りてしばらく周囲を散策するうちに、いくつか見覚えのある路地を発見できた。つまり、現在地はかなり慣れ親しんだ場所だということだ。
まったくもって知らない土地に放り出されたなら、もうなりふり構わずに生きていくしかなかっただろうけど……本当に、地理感のある場所でよかったと思う。
記憶を辿っていくうちに、見知った風景はどんどん多くなっていく。それなりの時間足を動かし続けて、最後、とある一軒家の前で、僕は足を止めた。
「ただいま、って言っていいのかな」
生前の、我が家。まあ僕は病気の時間を全て病院で過ごしていたので、実際に帰ってきたのは本当に昔のことだ。頭に染みついている匂いがどこからともなく漂ってきて、懐かしさに胸が締め付けられる。
大体が灰色で埋め尽くされている都会の建物群。その中ではかなり異質な雰囲気を放っている、木製の長屋だ。今思えば、贅沢な環境で育ったなと思う。
そんな何もかもが懐かしい家だけど、一つだけ、普段と違う部分があった。僕は溢れてくる苦い感情を飲み込みながら、そこにある看板の文字を読む。
「××××の葬儀、か……」
やはり、というか……僕は死んでしまっていたらしい。ほとんどわかっていたことではあるが、世間でもちゃんとそういうことになっているのを見ると、また苦しいものがあった。
うかうかしては居られないのはわかっていても、僕は玄関先で暫く立ち尽くしていた。夜風がいつもより冷たい気がして、肌を震わせる。
「……いこう」
庭に車は一台もなくて、明かりが灯っている窓は一つもない。家族は全員外出しているらしい。理由も大体想像が付くけど……不在はむしろ都合がいい。
人は死んだら蘇らない。死体まで確認しているはずの家族に、生き返ったなんて荒唐無稽な話を信じてもらえるはずもない。人を騙して喰う、そういう類いの異分子だと思われるのが関の山だろう。まぁ、間違いでもないところが悲しいけれど。
それに、信じてもらえる以前にそもそも関わり合いになりたくない人たちでもある。これらの理由もあって、僕に生前の家族を頼るという選択肢はなかった。
ただ、それはそれとしてこれから生きていこうと思ったらお金がいる。今の状態でアルバイトだとかが始められるかは微妙なところだけど、そういうのを試行錯誤する時間の分、当面の生活費が必要だった。
盗むことも考えたけど、一番罪悪感の少ない方法が、生前の自分の貯蓄を回収することだった。あとついでに、服。一応本人だから、どうか許してほしい。
家族全員が外出しているんだから、当然、全ての入り口は施錠されていた。無理やりこじ開けることもできたけど、音で侵入が周辺の住民にばれるのも避けたい。だから、少しだけ体内の血を使う。
「貴き我が血において命じる、従え」
滞りなく、身体はその変化を受け入れる。血は僕の命じた通り、僕の身体を無形の存在に変えた。吸血鬼としての能力の一つ、『霧化』。
壁に遮られることがなくなった僕の身体は、簡単に屋内へ侵入することができた。月の光すら入らない屋根の下は、端から端まで濃厚な闇に包まれていたけど、どういう原理か、僕の視界には昼とほぼ変わらない光景が映っている。
なので照明も付けずに、すいすいと廊下を縫って進む。床板のきしむ音を聞きながら、自室までたどり着いた。
襖を開けると、少し埃が舞って、けほっと小さく咳が出る。中はいかにも寂びれていて、掃除もされてなかったんだろうな、ということだけがわかる。
「確かここら辺に……あった」
呟きながら開いたタンスの引き出しの中には、ころんと地味なデザインの財布が一つ転がっていた。開いてみると、記憶通り現金が数万ほど入っている。
これだけじゃきついだろうけど、銀行にはもっと入金していたはずだ。カードは財布の中に入っていたのを確認したし、その分も含めればどうにかなると思う……多分。
……あと、財布だから当然なんだけど、もう役に立つことは無いであろう身分証明書も入っていた。そこには、記憶にある顔の写真とセットで、記憶にない名前が書かれていた。
「桐生×××、か……」
その名前は口に出してもしっくりこなくて、名前に否定されていると、そう知らない自分が教えてくれた。財布から抜いたそれらを、僕はそっと床に転がした。
最後に、衣装棚に入っていた服を幾つか見繕った。生前の体格が貧弱だったのが幸いして、ちょっとぶかぶかではあるけれど、何とか形にはなる程度の服はありそうだった。
するりっ、と鏡の前で服を脱ぐ。目の前に写る美少女をぼんやりと見ながら、そういえば、この身体になってからはまだはっきりと鏡で自分を見れていなかった、と思う。
ドレスの下には、上下とも赤い下着だけがあった。下はともかく上は違和感の塊で、しかも、なんというか……客観的に見てみると、僕は結構大きかった。
鏡に中の少女が顔を真っ赤にしているのに気付いて、遅れて恥ずかしさを自覚する。慌ててシンプルなシャツを羽織り、素肌を外気から隠した。
そのままズボンも履いてしまうと、まあ街を歩ける程度の格好にはなったと思う。少し視線は集めてしまうと思うが、それはまぁ仕方ないだろう。
もう一度、自室を見返してみる。埃でまみれたそれらに別れを告げるように、一瞬だけ瞼を閉じた。
「さよなら、×××」
心の中で呪いを唱える。身体は再び、霧に変わった。




