急転
なんで、ここで鈴の名前が。
そう思う反面、考えないようにしていただけで、ある種当然のことだったと思う自分も居た。会社の三人からも効いた通り、鈴は魔術学のエリートで……卒業後に、異分子殲滅隊の推薦に乗ったって。
こんな重大な研究に、それだけ有能だった鈴が関わっているのは、至極当然の流れだ。けれど……
頭に浮かびかけた嫌な考えを、形になる前に振り払う。そして殆ど無意識に、そのファイルを開いていた。
しかし、最初のページからほぼ書き殴ったかのような、全く理解の及ばない文字列が現れる。個人記録の表題の通り、内容は覚書のようなものらしく、他者に伝えることを前提には置いていないようだった。
書かれていること自体も専門用語らしきものばかりで埋まっていて、魔術学に疎い僕では、理路整然と書かれていたって理解できなかったと思う。謎の焦燥に駆られながら、分からない部分をどんどん読み飛ばし、ページを捲る。
しかし、当然だけれど、鈴自身に関係するような内容は一つも出てこなかった。あくまでこれはメモ書きであって、日記ではないから。
そしてどんどんページを捲っていくうちに、それほど厚みのあるわけでもない内容は残り少なくなってくる。僕がもう諦めて本を閉じようとした時、ふと、一つのページを境に、内容の雰囲気がガラッと変わった。
今までの乱れた文字たちが、しっかり行に合わせられ、丁寧に書かれたものに変わる。そして一定量毎に区切られた文章の頭には日付が書かれていて、まるで……
「……日記?」
このメモ書き達の中に、何故それが記されているのかと首を傾げる。しかし目を通すうちに、段々とその正体が掴めてきた。
これはどうやら、観察日記のようなモノらしい。対談をしていることから、診察記録と言った方が正しいのかもしれない。どうにも、被検体らしき人物に鈴が直接話を聞いて、そこから、魔力の、転用を……。
いや、けれど、おかしい。
おかしいおかしいおかしい。絶対に。
要するに、この、被検体という立場に収まる筈の人物は、獅現さんの口ぶりからして、一人しか居ない筈で……。
喉の奥が焼け付くような痛みに耐えながら、ページを捲っていって、それで……確信に変わる文字を、見つけてしまう。
『桐生×××』
この記録にある対談の相手の名前。
何回も、何回も見返す。けれどその名前は、僕が吸血鬼になってすぐ自室で見つけた自分の名前は、一文字も違わずにそこに記されていた。
だけれど、そんなことがあっていい筈がない。だって、僕と、鈴は────吸血鬼になった翌日に、初めて会ったはずなんだから。
「──レット。スカーレット?聞いていますか?」
眩暈がして、思考の渦に飲まれていた僕は、すぐ隣の自分を呼ぶ声に遅れて気付いた。かすみがかったような頭のまま、条件反射でそちらを見る。
「全く、何してるんですか。まずは先に片付けを……」
僕の様子がおかしいことに気付いたのか、刀香の口がそこで止まる。そしていつの間にか持っていた箒を横に置くと、心配そうに膝を折って僕の顔を覗き込み、小声で話しかけてきた。
「本当に、どうしたのですか?体調が悪いのなら、気にせず休んでいてもいいんですよ?」
そんな優しい声に、荒れていた心中が段々と落ち着いていく気がした。震える呼吸を宥めるように一度息を吐いて、どういえばいいのか言葉を選びながら顔を上げ───
時間が止まる。
刀香の顔。その後ろの光景。
ゾッとするような冷たい顔で、白銀さんが右腕を振り上げていた。
明らかな殺意を込められた魔力が、ギラギラと輝いて見える。それこそ、白銀さんは素手なのに、殺意を込めているのだと確信できるほどの。
何故、とか。どうして、とか。そんな思考は浮かんでくる前に消え去った。だって、その振り上げた手の狙い先は一目瞭然で。
それだけで、もう他の何も考える必要はなかった。
一気に魔力が全身に充填される。魔力の強化と、吸血鬼の身体能力と反射神経も全開にして、刀香を横に突き飛ばす。
ひどく驚いた刀香の顔が網膜に焼き付いて、そして視界から消える。その時には、同じように驚愕に目を剥いた白銀さんの腕が───僕の身体を貫いていた。
「────!!!、何が!?」
緋彩に突き飛ばされた私は条件反射にそう叫びながらも、魔力を励起して、身体が壁に叩きつけられる直前に空中で体勢を立て直し、壁に受け身を取る。
魔力を励起した身体は、多少の衝撃にびくともしない。癖のままに身体強化術式を展開すると、皮膚のほんの一枚下を青白い線が流れていった。それが脳の伝達能力も強化し、一気に視野が広まる。
同時に頭も冷えてきて、状況を整理するための思考の余裕が出来た。壁に受け身を取って床に降り立つ前に、あらかたの思考を済ませる。
まず、緋彩に突き飛ばされた。これは間違いない。では何故彼女が突然そんな奇行に走ったのか。それは目の前の光景が雄弁に語っていた。
白銀の貫手が、緋彩の胸を貫いている。鮮血が白い床を、壁を、広範囲で真っ赤に染め上げていた。白銀に害意が無ければ、決して起こり得ない光景。
そしてその凶行の間に、先ほどまで自分が居たのだ。私が背後で気付かなかった出来事に、顔を上げた緋彩が気付いて、私は庇われた。
……そこまで考えて、冷静に次のことを思考出来るのは、私が緋彩の正体を知っていて、あの程度では死なないと知っているからだろう。
ここからが、最大の問題。
緋彩は、死なない。あれくらいの傷で死ぬのなら、とっくのとうに私が殺しているから。ただ、あれで、ここに居る二人……白銀と獅現は、目撃することになる。
明らかな致命傷が自動で再生していくという、言い逃れのしようがない光景を。
もしや、緋彩の正体がバレたから、こんな凶行を……?いや、それなら私から狙う理由が無い。白銀の行動の理由は今の情報だけでは不透明なままだ。確かなのは、理由がどうあれ、白銀が敵ということ。
次に浮かんだ考えは、口封じ。幸いにもこの研究所は、俗世から隔離された空間だ。この二人をここで殺してしまえば、緋彩の正体が露見することは無いだろう。正当防衛という口実もある。
どのみち、相手もここで手を出してきたということは、私たちを生かして出す気はないのだろう。好都合だ。すっと頭が冷えていき、戦闘態勢に切り替わる。
スタッと、足から地面に着地する。そして躊躇わず抜刀すると、その切っ先を白銀に向けた。
「一応、何のつもりかと聞いておきましょう」
本当に一応、そう言葉を投げる。視界の先では、緋彩から腕を引き抜いた白銀が、再生する傷を眺めながら、こちらに視線も向けずに、自分の鮮血に染まった腕を呆然と眺めていた。
明らかにおかしい反応だ。少なくとも、私達二人を殺すつもりで、順番を違えただけという人物の反応ではない。吸血鬼だということに気付いて驚愕しているというのにも、違和感がある。もう殺すのは確実だが、動機は知っておきたい。
逃亡されることだけは避けるために、両者を視界に収めて警戒しつつ、待つ。しかし白銀はぶつぶつと何やらうわごとを吐き続けていて、動く気配も、返答する気配もない。
「──白銀、貴様、なんのつもりだ!誰がそんなことを命じた!」
そして先に口を開いたのは獅現だった。どうやら部下の凶行に驚愕して言葉を失っていたらしい。そのおかげで、白銀の独断専行ということは分かった。到底、演技とは言えぬ動揺の仕方だ。
絶叫にも近い声に、白銀がようやく反応を示した。呆然とさせたままの眼をそのまま獅現に向けると、ゾッとするような冷たい声で言った。
「もう、いい。散々だ愚図共め。獅現、お前は、青崎の所へ行け。今すぐにだ」
「な、貴様、い、いや、分かった」
明らかに立場違いの言動。しかし獅現は顔を真っ青にしたかと思うと、それに従おうとする。そして何故か出てくる所長の名前。濁流の様に、異常事態が起きる。
けれどそれを考えるのは後で良い。今やることは何がどうあれ、一つだけだ。
「逃がしません」
扉に向かって背中を見せた獅現に一気に踏み込み、刀を振り上げる。しかし身体中が警戒反応を発して、無理矢理に踏み込みを中断させた。
そして、一歩先が真っ赤に染まる。驚愕して身を引き、視界を埋めたソレが何なのか、理解した。
言うなれば、真紅の大杭。それが私の顔の前を通り過ぎ、対面の壁を貫いていた。そんなものは当然つい先ほどまではこの部屋に無く、今、突然に現れた。
その現象を、私は良く知っていた。戦場に出るたびにまず必ず目にする、アイツらの技。それを理解した時点で私は獅現を追うのを諦め、白銀の方へ視界を戻す。
そこには、柱のような太さの真紅の杭を片手で突き出した白銀が居た。そして私が構え直すのを見ると、歪に表情を歪める。
すると、白銀の特徴的な銀の髪色が、みるみるうちに変化していく。銀嶺から、真紅へと。変化はそれだけに収まらず、顔も、体格も、挙句に、身に着けたものさえも。
そして残ったのは、もはや白銀の面影は一切ない鋭い顔付きの人物。肩甲骨あたりまで伸びた真紅の髪に、私よりもやや高い背。膨らんだ胸から、女性型で間違いないだろう。
身に着けているのは、全てが紅に染まった紳士服のような意匠のモノ。私は視界が鈍色の青に変わっていくのを感じながら、低く言った。
「───吸血鬼」




