秘密
筆が進む回でした。
刀香が、解き終わった解答用紙を手に持って、苦々しい顔をしている。比例するように、僕も額から冷汗を流しながら必死に顔を背けた。
「こ、れは……酷い、というレベルですらない、のですが……」
「い、いや、あはは」
分かっていた。問題を解いている時点で、自分の学力が全く足りていないというのが、察して余るほど、問題文を理解することが出来なかったから。
特に、頻出する専門用語を全く理解できなかったのが大きい。もしかしたら刀香が意地悪して難しい問題を出しているのでは、とも思ったのだけれど、この反応を見る限り、そういうわけでもないらしい。そもそも刀香は、そんな無駄なことしないと思うし。
僕としても、この結果は結構ショックだった。学校に行けなくなってからも病床の上で、付けられた家庭教師の教育を受けていた身であるし。もしかしたら病気を克服できる未来があるかもしれないと努力していた勉強が、無駄だったのかもしれないと思うと、流石に心にくる。
「正解できている範囲が、初等教育のレベルですよ……?一般市民ならともかく、貴族たる貴方が魔術学に疎いのはどうなのですか……」
「ま、魔術学は選択教科だって聞いたんだけど」
「それは、魔力を持たない一般市民が通う学校の話でしょう!貴方、貴族学校はどこまで通っていたんですか?」
「小学校、まで、です……そこからは、家庭教師から教えてもらってたから、よく分からない、かな」
それを聞いて、刀香が少し訝しんだような表情をした。
「あの、答えられたらでいいのですが……貴方、不登校だったのですか?」
「不登校というか、ほら、生前は病気で死んだって言ったでしょ?あれが酷くなって、入院生活が始まったのがそれくらいで」
「……なるほど。それで、家庭教師を付けてもらったのですか。だとしたら、これは家庭教師の怠慢ですね。まさか貴族令息に、魔術学を教えないとは」
「多分、無駄だと思ったんじゃないかなあ。僕の病気、魔力障害の一例だとか言ってたし」
僕が何気なしにそう言うと、刀香が気まずそうに表情を歪めた。そして、何かを押し殺すように声を絞り出す。
「貴方が、分家に引き渡された理由は、病弱だから次代当主を務められないから、でしたか。もしかして……」
「うん。余命宣告されてたよ。それこそ、生まれた直後からそうだったらしくて。少なくとも、大人にはなれないってさ」
「…………」
なんだか空気が重々しい感じになってしまって、少し気まずい。自分の話でそうなってしまったのが嫌で、あははっと笑って見せる。
「生まれてからずっとそうだったから、別にそこまで悲壮的じゃなかったんだよ。他の人が羨ましくなかったって言ったら、嘘になるけどね。でもほら、なんだかんだこうやって生きてるから───」
「貴方も、気付いているのではないですか」
僕の言葉に割り込むようにして、刀香がそう言った。どこか震えているようにも感じるその声に、僕は目を丸くする。気付いている、とは、何のことなんだろうか。
「何を───」
「自分の正体についてです」
それを聞いた瞬間、自分の喉からひゅっ、という音が聞こえた。
「吸血鬼が他人の記憶を奪うというのなら、もし、他人と自分の違いが分からなくなった吸血鬼は」
「やめて!!!!!」
自分でも驚くほど大きな声が出て、駄々をこねる子供の様に、自分の耳を塞ぐ。吸血鬼の聴覚からすると、それが無駄だということも分かっているけれど、そうしないと頭がどうにかなりそうだった。
俯くと垂れてきた髪に遮られて、何も見えなくなる。頭がぐらぐらして、今日の朝被った仮面に罅が入るのを感じた。自分が酷い顔をしているだろうというのが、容易く想像できてしまう。
顔を見られるのが怖くて、刀香が無理矢理のぞき込んだりしてこないかと身を固くする。けれど、恐れていた事態は来ずに、刀香はその場から動かず話しかけてきた。
「青崎所長は、このことを?」
「……知らない。ねえ、刀香、僕は人間だよ」
「それは、承認しかねます。私にとって貴方は、『今のところ無害』な吸血鬼です」
今のところ無害、と強調された言葉が、心に重くのしかかる。
青崎所長がこのことを知ったら、僕をどうするだろうか?僕という存在が時限爆弾付きなのも、すぐに看破されるだろうか?刀香だってそれは、薄々感づいていそうだった。
あの怪物の、異分子殲滅隊を信頼するなという言葉がすとんと胸に落ちてきた。いつ爆発するかも分からない時限爆弾を、そばに置いておこうという人間がどれほどいるだろうか。
「刀香、お願い。このこと、誰にも言わないで」
視界の端に映る刀香が、動揺を隠せず震えるのを見た。少し間をおいて、かすれるような声で返事が来る。
「それは、私に、青崎所長を裏切れと、そう言っているのですね……?」
「無茶な、お願いだってことは分かってる。けど、僕、まだ」
人間でいたい、という言葉は、ぎりぎりのところで喉につっかえた。こんな酷いお願いを押し付けておいて、僕を吸血鬼として見ている刀香にそんなことを言うのは、贅沢だと思った。顔を上げる。
目と目が合った。
刀香は、少し目を細めてこちらを見ていた。そのまま、無言の時間が続いた。
心臓が痛む数秒間を得て、刀香がぎゅっと目を思い切り瞑った。そしてぱっと開けると、口火を切る。
「正直、自分の中にある考えが自分でも信じられません。それこそまるで、貴方と会ってからここまで、私にこう思わせるために、貴方が演技していたのでは、と思うほどには」
ですが違うのでしょうね、とまるで自嘲するように刀香は言った。
「貴方には、個人的に負い目もあります。分かりました。約束です。このことは、青崎所長には報告しません」
「……ほ、本当?」
いつもの青崎所長の慕い方からは想像もできない刀香の返事に、ついそう返してしまう。それが可笑しかったのか、それとも僕がとんでもなく間抜けな顔をしていたのか、刀香はふっと笑った。
「こんな嘘は言いませんよ。ただ、私はあくまで報告を一つしないだけです。青崎所長を、裏切るつもりはありません」
刀香がそう口にしながら、僕の方へと近づいてくる。僕がそれを惚けて見ていると、額に人差し指をぴとっと当てられた。突然のひんやりとした感覚に、きゅっと目を瞑る。
再び目を開くと、刀香の顔が思ったよりも近い位置にあって、ふぁ、っと情けない声が出る。
「どうにか、貴方が貴方のままで居られる方法を探しましょう。それならば私たちは強力な戦力を手放さずに済みますし、貴方にとっても最善の結果に収まります。まぁ、どうしても駄目だった時は、一か八か青崎所長に話して手伝ってもらうことになると思いますが……」
「刀香以外に知られるのは───」
「怖いんでしょう?本当に、手間がかかりますね貴方は。前例のないことですが、まあ、何とかなりますよ」
何とかなる、という励まし文句はあまりに不安定で、具体性のないものだったけれど、それを刀香が言ってくれたのが嬉しかった。久しぶりにまともに呼吸が出来た気がして、肩の力が抜ける。
すると刀香は、僕の目の前に積み上げられた本やファイルの山を、再び纏めて持ち上げた。そして棚の前まで移動すると、元の場所に戻し始める。
「え、と?あれ、勉強するんじゃ……」
「この空気で、勉強なんて手に付かないでしょう。それよりも貴方には、大切なことがありますので」
僕の困惑をよそに全部片付けてしまった刀香は、所在なさげに椅子に座っている僕の手を取ると、強引に引っ張った。
「うええ!?」
見た目からは想像もできない怪力で一気に引き上げられた僕は、突然手を握られたのも合わせて、驚きの声を上げる。なんとかふらつく足元を整えると、そのままの勢いでまた引っ張られる。
「ちょ、ちょっと!どこ行くの!?」
「さあ、何処でしょうか。取り敢えずは、私の部屋ですかね」
「はは、はぁ!?!?」
少し悪戯っぽく笑う刀香に手を引かれて、僕は会議室を出た。
何かと刀香に無茶なお願いをしがちな緋彩。二人だけの秘密……うん、紛れもなく純愛ラブロマンスだね!




