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侵食

ダークファンタジーらしくなってきた新章

意識が濁っている。


 全てがぼやけて、混濁した背景は意味のある物質を何も映していなかった。あるのは、暗いのか明るいのかも不明瞭な、無為の空間。


 視界と、耳とだけが液体の中に浮かんでいるような感覚の中、僕の目の前に、一人の少女が立っていた。幼さが残る美貌に、一片の隙間もなく紅のドレスを身に纏っている。


 確かに、見覚えのある少女。それが誰が一瞬考えて、すぐに、鏡の前に立った時に毎回見ている、自分の姿だと分かった。だけれど、目の前の少女は鏡の中の虚像などではなく、ゆっくりと、僕と違う動きをする。


 そもそも僕は、動くということが出来ない。手足の感覚は一切なくて、それを嘲笑うがごとく、目の前の少女は凄惨な笑みを浮かべた。



「おはよう、人間さん。良い夢は見れた?」



 鈴の音を転がすような声も、確かに聞き覚えのあるものだった。ただ、表情が、纏う雰囲気が、おぞましくてならない。


 僕が困惑しているうちにも、少女は問答無用で話を続ける。瞳に何も映していないようにさえ感じる様子で、紅のドレスを揺らした。



「私、死んだはずだったのだけれど。貴方、何があったのか知らない?レヴィに起こされたことは、記憶にあるのだけれど」



 幼さを残したような発音で聞いてくる少女。だが、レヴィなんて名前は聞いたことがない。そもそも、なんで自分の姿が眼前で喋っているのか。ここはどこなのか。あの後、どうなってしまったのか。何もわからない。


 少女は人差し指を唇に当てると、少し視線を外して、ん~っと喉を鳴らした。



「レヴィは出来の良いペットちゃんなの。私のことも最後まで看取ってくれてね。けれど、ご主人様の眠りを妨げるような悪い子に育てたつもりは無かったわ。それだけは残念ね。まあ、お仕置きは貴方が済ませちゃったみたいだけれど」



 それにしても、と聞いてもいないことをぺらぺら喋っていた少女は、一度会話を区切る。そして興味深そうな顔で、僕の近くまで歩み寄ってきた。



「貴方、随分と哀れね。人にも怪物にもなりそこなうなんて。そのくせして人間ごっこしながら、あの、くそったれな魔族連中に力を貸して!私の家族を殺した!!!」


 

 話の途中で少女が急変する。まるで別人のように表情の一部がぐにゃりと歪んで、激情を隠そうともしない怪物の表情となった。僕は逃げようとして、しかし身体は一向に動く気配がない。


 あまりの恐怖に意識を手放しかけた刹那、少女の顔が元に戻る。そして、さっきまでの話は忘れたと言わんばかりに、あっけらかんと笑って見せた。



「でもいいのよ、代わりは幾らでもいるものね。けどね、代わりを作るためには、身体が要るの。分かるでしょう?」



 分からない。分かりたくもない。しかしそんな僕の悲鳴をなんとも感じない怪物は、舌なめずりしながら、更に距離を詰めてくる。頬に、ぞっとするほど冷たい指が触れた。


 暗い、濁り切った血の沼のような瞳が眼前に迫る。それはもう、正気を保っている生物の眼ではなかった。深く、何処までも狂気に包まれた真性の怪物が、僕へ腕を伸ばしてくる。




「けれどね、私、生前の力は殆ど失ってしまって。今ご飯を消化している最中なのだけれど、時間がかかりそうなのよ。だから、それまでは貴方に預けておくわ」




 どす黒い瞳の色は、一転して消え去る。


 名残惜しそうな、怪物の内面を考慮に入れなければとてつもなく色っぽい笑みで、少女は身体を放して背を向けた。そして指をぴんっと一つ立てると、思い出したと言わんばかりに口を開く。



「あ、けど、それまでに身体を壊されたら困るの。だからアドバイス。あの、異分子殲滅隊とかいう連中のことは一切信じちゃだめよ。ただ異種族であるというだけで、抵抗もしない人たちを虐殺して笑うような狂人集団。あの魔族どもの中に、まともな奴なんて居ないわ。居てたまるものですか」



 その言葉に、疑念はさらに深まった。何者、なのだろうか。まるで全てを知っているかのように話す少女。吸血鬼を家族と呼び、あたかも吸血鬼を生み出せるかのように語る、この怪物。



「私?そうね、じゃあ教えてあげる」



 振り返り、悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべ、怪物は言った。



「最後の紅血族にして、全ての吸血鬼の始祖。この世の全ての人間を憎悪する復讐者。みんなからは、アンセスターって呼ばれてたわ」



























 カチ、カチ、カチ、と規則的な音が響いている。


 頭の中から、経験したことのないくらいの鈍痛が脳内で反響しているのが分かる。吐き気すら覚えるそれをなんとか無視して、重い身体を持ち上げた。


 最後の記憶が曖昧だ。記憶の中での会話ははっきりと覚えているのだけれど、そこに至る前は、どうしていただろうか。カレーを食べて、シンクに移動して、それから……。



「ひっ」



 身体に触れた奇妙な感覚で、思考が強制的に中断させられる。跳ねるようにして後ずさると、自分の元居た位置に血溜まりが広がっているのが見えた。


 僕はさっきまで、あの中に倒れ伏していたのだ。顔も服もそのせいで真っ赤に染まっていて、血液が垂れる、ぬるりとした感触に全身が寒気だつ。


 慌てて血液操作をして、汚れを取っ払った。だけれどそこで、自分の失策に気付く。倒れる前、そばに鈴が居た筈なのだ。これを見られたらまずい。


 血の気が失せる感覚に襲われながら、周囲を見渡す。けれども視界に入る限りには誰もおらず、見られていなかったことに一安心した。


 落ち着いたら直前の記憶までしっかり戻ってきて、疑問が大量に出てくる。時計を確認するともう深夜と呼べる時間帯で、意識を失ってからかなりの時間が経ってしまっている。


 だとしたら何故、僕はあのままの状態で放置されていたのだろう。僕が目の前で血を吐いて倒れたら、鈴はまず救急車を呼ぶだろう。目覚めるなら、病院のベットだとかが妥当なはずだ。


 僕が突き飛ばしてしまったせいで気絶していたのなら、これには納得がいくのだけれど、見ての通り、鈴はこの部屋を出て行っている。


 何かあったのだろうかと考えたところで、脳内の鈍痛に既視感を覚えた。これは確か、鈴に『魅了』を使った時に感じたものと似ている。


 もしかしたら、正体がばれないよう咄嗟に、鈴に『魅了』をかけていたのだろうか。仮説を証明するため、鉛のように重い身体を引きずり、寝室のドアを開く。



「よ、よかった……」



 ベットの上では、鈴がすやすやと寝息を立てていた。あの状況で僕を放置して眠るとは思えないので、多分、『魅了』で何ともないよう見せかけつつ眠らせたのだろう。


 一番恐れていたことが大丈夫だと分かり、全身の力が抜ける。念のため近づいて確認してみるが、突き飛ばした時の外傷もほんの軽傷程度で済んでいるようだ。


 安堵感から鈴に手を伸ばし、触れる直前で止まった。鈴の首筋が近づいてきた時の、あの時の精神を書き換えられるような衝動を思い出したから。


 鈴が寝返りをうって、緩い寝間着の隙間から白い肌が覗く。咄嗟に自分の口を塞いで、部屋の端まで距離を開けた。


 けれど恐れていたような衝動は湧き出してこなくて、脱力感のまま床にしゃがみこんだ。部屋内の音源が、時計の針と呼吸だけになる。


 

 もしあのまま、衝動を抑えきれなかったらどうなっていたのだろうか。刀香に吸血した時とは比べ物にならないくらいの焦燥感。僕は適量で、自分を止めることが出来ただろうか。


 想像してしまう。身体から血が一滴もなくなった鈴が、冷たくなって部屋に横たわっている。吐き気がこみあげてきて、喉が胃酸で焼かれる感覚がした。


 否応なしに、身体が震え始める。必死に自分の身体を抱いて止めようとするけれど、一向に収まる気配は無くて、何も見えないよう、身体を丸めて頭を抱える。


 脳内で、あの無邪気な声が何度も反響している。あの怪物は、僕の身体を奪うと、そう公言していた。その事実が、僕の精神をじわじわと蝕んでいく。


 僕は一体、あとどれくらいの時間『僕』でいられるのだろうか。そして、『僕』が『僕』でなくなった時、どうなってしまうのか。


 蝕まれていく。蝕まれていく。


 眠気は気絶する前より数倍酷くなっていたけれど、とても睡眠をとる気にはなれなかった。


 



 蝕まれていく。蝕まれていく。蝕まれていく。

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とりあえず鈴になんともなくてよかったぁ…
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