正体
刀香視点
自室の自動ドアが開く音を聞くと、緊張の糸が抜けたのか、倦怠感が波のように押し寄せてきた。ドアにロックをかけると、ベットまで身体を引きずっていく。
ドサリ、と背中から倒れこむと、天井の照明がやけに眩しく感じられた。腕で自分の視界を覆い隠すと、ようやく神経を落ち着かせることが出来た。
瞼の裏には、吸血鬼の血に塗れて憔悴していた紅眼の少女が浮かんできた。具体的には少女じゃないらしいのだけれど、少なくとも私にとってはそのようにしか見えない。
……それが私にとって、かなりの衝撃だった。分かっていたはずなのだ。あの少女の内面は、吸血鬼などという怪物ではなく、人間なのだと。その話は、納得しているつもりだった。
けれど何処か、それでも彼女のことを忌々しい怪物だと思っていたのかもしれない。
仕方がなかった、とも思う。首を刎ねられようが、心臓に風穴を開けられようが、絶命するどころか怯みすらしないあの姿は、正しく怪物と言える姿だった。
あんなものを見せられた後に、内面は普通であるなどと……どうしても思えなかった。だから、あそこで隊員を守れなどという指示を、咄嗟に出してしまったのだと思う。
「……自分が、嫌になる」
彼女は、吸血鬼の能力を使いさえすれば、一人は守れたかもしれないと言ったが、実際は違う。
もし緋彩の正体があの隊員にばれたとしたら、私があの隊員を殺していた。
緋彩の正体がばれるということは、青崎所長の終焉を意味する。なら私が取るべき行動は、たったの一つだけだ。完璧な、口封じ。
緋彩はそのことに、気付いていない様子だった。私も出来ることなら、気付かないでいて欲しい。だって、彼女はどこまで行っても被害者でしかないのだから。自分の存在自体が罪など、残酷すぎる。
トラック内で吐いたセリフなど、それを覆い隠すための表面上だけの慰めと、綺麗事に塗れた理想論に過ぎない。市民や仲間を守るため?まさか。
貴族が異分子殲滅隊実働隊に所属する理由なんて、九割がたが異分子に対する復讐だ。
吸血鬼は、一般人より貴族を執拗に付け狙う。その被害を受けたというのは、私も変わらない。ただ他の隊員と違うところがあるとしたら、事件の被害の度合いだろうか。
あの時の光景は、青崎所長に拾われて、ある程度トラウマを克服できた今でも、たまに夢に出てくる。
吸血鬼が不気味な声で嘲笑して、警備も、異分子殲滅隊としての経験がない家族たちも、一瞬にして血の海に伏したあの夜。
必死に逃げて、幼かった私が逃げ切れるはずもなかったのに、ふざけたセリフを添えられて見逃されたあの夜。
見上げた月がやけに赤く感じて、全身ボロボロで、全てを失ったのに、命だけは拾い上げたあの夜。
あの怪物はその後、結界外に逃亡していったらしい。おそらくだがまだ、生きながらえているのだろう。それが許せなくて、異分子殲滅隊に入った。
緋彩の、「刀香は強いんだね」という言葉が、何度も脳内で反響している。それは、罪悪感からだろうか。
私はそんなに強い人間じゃない。復讐だけを糧に亡霊のように彷徨って、偶然青崎所長に拾ってもらったあとも、青崎所長に依存することで、なんとか自分を保ってきただけだ。
ふと、手のひらに痛みを感じて、思考が断ち切られる。状態を起こして見てみると、どうやら、いつの間にか手を強く握りすぎていたらしい。爪が刺さった手のひらからは、一筋の血が流れていた。
「いけない……」
剣士である自分にとって、手の怪我は致命的だ。これくらいなら多少痛むくらいで済むけれど、もし菌が入って膿んだりするとなると、流石に無視できない。
魔術で治せれば便利なのだが、あいにく、魔術は壊すことは得意でも、治すことは非常に燃費が悪い。こんな怪我をわざわざ治すのに魔力を使ってしまうと、明日はまともに動けないだろう。
殆ど物が置かれていない室内を横切って、シンクで傷口を洗う。水分を丁寧に拭き取って絆創膏を貼る。
ぼうっと、それを眺める。表面を撫でると、ぴりっとした痛みが走って顔を顰めた。
そういえば、緋彩はこんな小さな傷はおろか、心臓に開いた穴すらも自然に再生していたけれど、あれは一体どういう原理なのだろう。
吸血鬼は確かに、傷の直りが途轍もなく早く、再生能力とも見間違うほどだ。だけれど実際のところ、それはあくまで『傷の直りが早い』という枠組みを出ず、欠損部位を治したりされたことは無い。
同じく、致命傷を与えることでも吸血鬼はあっけなく力尽きる。異常なほどの腕力や、吸血鬼固有の魔術を持ってはいるけれど、総じて、生き物の範疇に収まっていると思っていた。あの、緋彩という吸血鬼に会うまでは。
中身はともかく、あの身体はもう、生命体としての枷を外されている存在だ。最初の戦闘だけで言えば蝙蝠化によって回避されたのかと思っていたが、二回目の戦闘からして、それも違った。
そもそも、心臓に刺突した瞬間手のひらに伝わってきたあの感覚は、肉を貫いたものとは少し違和感があった。
彼女についての謎で言えば無数にある。貴族家で暮らしていた令息でありながら、内部事情について疎いということもそうだ。
桐生家、と言っていたか。青崎所長も気にかけていたはずだ。困難ではあるだろうが、大本の紫原家も含めて、探ってみる価値はある。
考えを纏めた私は、仕事モードから休息モードに身体を切り替えるべく、シャワー室に向かう。
更衣室に入って、いつもの制服を脱ぎ捨てる時、ふと、ずっと引っかかっていたことが脳内から引き出されてくる。
吸血鬼は、対象の全てを吸血することによって、その人物の記憶を得ることができ、あのように他者に変身することが出来る。果たしてそんなことを、緋彩はどこから知ったのか。
青崎所長も、その情報の出どころにはあまり拘って聞いていないようだったけれど……もし、彼女の語った自分の境遇が全て本当のことなら。
彼女は、『吸血鬼になった人間』などではなく、
「───緋彩、あなたは、気付いていないだけなのでは」
無意識に、私はそう呟いていた。




