訪問
ターニングポイント
「お前はただ生きているだけで良い」
淡々と告げられるその言葉を呪うようになったのはいつからだろう。その言葉が「僕」に向けられてはいないと、幼心ながらも察した瞬間からだったか。
何も知らない人から聞くと、それは愛のある言葉に聞こえたかもしれない。病弱だった僕に向けた、気遣いの言葉なのだろうと、ごく自然に勘違いすると思う。
生まれてこの方作り笑いに囲まれていた僕は、表情から感情を読み取るのが酷く不得手だった。だから、全部を知って絶望するまで、僕も勘違いしていた。
人間不信になって、病に身を侵されて、早く死んでしまえと自分に毒を吐いて、医師に延命されて、それでも明日に希望でもあるみたいにリハビリさせられて、教育を施されて。
自分が欲しいものは何一つ手に入らず、自分に必要なものはすべて揃った培養液のような病室で育った僕は。
僕は。
僕だったのだろうか。
意識が浮上するのは突然。
起きてからすぐ、自分がまた突拍子もないような変な時間帯に目を覚ましたのが分かった。部屋は日の光を一切感じさせない真っ暗闇で、外も静寂に包まれていたから。
「んぅ……」
隣からうめき声が聞こえる。半分開いていない目で見上げると、僕を抱きかかえるようにして鈴が眠っていた。抱き寄せるようにして腕が動いて、首筋をくすぐる。
ぞわっと背筋に変な感覚が流れて、思わず漏れそうになった声を口を塞いで抑えた。鈴が何時頃から寝始めたのかは知らないけれど、こんな時間に起こすことは無いだろう。
でもそれはそれとして、これ以上寝ぼけて変なことをされたらたまらない。いまだ肌に軽く触れている指先から逃れるように、出来るだけそっと腕の輪をすり抜けた。
僕が抜けた直後、その隙間を押しつぶすように鈴が寝返りをうった。もしまだそこに自分がいたとしたら、お互いの体格差のせいでぷちっとつぶされていただろう。多分。
そんな恐ろしい想像をしながら、ぼうっと鈴の寝顔を眺めた。鈴は凄く感情が豊富で、起きているときに真顔なことをまだ見たことがないくらいだ。
それでも睡眠中は、幾らか表情から感情が読めなくなる。それはまあ、別段特別なことではないのだけれど、僕はなんだかそれに安心感を覚えていた。
それは多分、まだ脳裏に残っている夢のせいだ。この人は他人の視線に対してとても無防備で、すぐ感情が読み取れて、自分を偽らないのだろう。僕とは、随分と違う。
夢の中で言葉を吐いていた連中にもないものだ。だからだろうか。まだ付き合いが短いのに、鈴といるのが落ち着くのは。
きゅっと胸が締まるような感情が喉にこみあげてきて、それを飲み込む。少なくとも今はまだ、夢を見ていられるように。
取り敢えず、僕はベットから立ち上がると、先日も喜んでもらえた朝食づくりでもしようかと思いついた。時計を見てみると、まだ朝とも言えないような時間だったので、多少凝ってみようかなとか考えたりして。
寝室を出て、少し音の鳴るドアを閉じた時だった。外から違和感のある音がしたのを、僕の耳が拾った。物騒なことがあった後なのもあり、いつもは大して気にしないそれに注意深く聞き耳を立てる。
コツ、コツ、と定期的に鳴り響く音だ。ここまで届いてる音はごくわずかだが、耳をすませばすぐ目の前のように聞こえる。外の廊下の足音だろうけど、どうしてこんな時間に足音がするのだろう。
吸血鬼、という言葉が脳裏をよぎる。夜に訪れる脅威の代表例といったら、やはりあれだろう。しかし異分子警報は全く聞こえないし、数日前にも出たばかりのあれはそんな頻繁に見るような存在でもない。
考え過ぎかな、と肩の力を抜く。確かに深夜に出歩く人はなかなかいないが、それでもゼロじゃない。それにここはマンションで、沢山の人が住んでいる。そういうこともあるだろう。
そう結論付けて意識を背けようとした瞬間、足音が止まった。しかも、この一室の目の前で。
ぴんぽーん、と間が抜けたようなインターホンの音が鳴る。思わず肩が跳ねて、玄関口の方に視線を向けた。いつの間にか吸い込んでいた空気を吐き出すと、ようやく幾らか頭が回る。
深夜に突然インターホンがなって……から始まる異分子警告用のお話なんて、腐るほど聞いたことがある。そしてもちろんそれを知らない人なんていないわけで、こんな時間に人を訪ねる奴はなにかやましいことがあるのか、世捨て人かのどちらかくらいだ。
少し逡巡したあとに、僕が出てみることにした。もし普通の来客だとしたら間違いなく鈴の客だろうけど、異分子だか暴漢だかした時に簡単に対処できるのは僕の方だ。幸い、寝室からはまだ寝息が聞こえるし。
僕は五感を駆使して警戒心マックスのまま、玄関に向かう。どうやらお客さんは、まだドアの前で待機しているようだった。ゴクリ、と唾を飲み込むと、一応考え付いた文言を口にしながらドアノブを捻った。
「すみません、家主は今眠っていまして───」
「ああ、分かっている。こんな深夜にすまないな。私は君に会いに来たんだ」
ハスキーな女性の声が聞こえて、思わずは?と発しながら、僕よりも随分と高い位置にある顔を見上げる。印象的な蒼眼が、暗闇の中で輝いた気がした。
不思議な威圧感のある女性だった。強い、と言う言葉を連想させるような風貌に、佇まい。羽織っている軍人のようなコートがそれに拍車をかけていた。
警戒心が一段階引き上げられて、自然と目つきが鋭くなる。そんな僕の機先を制するように、女性の口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「警戒されるのも当然だから、事前に言っておこう。私は君の正体を知っていて、その上で君の敵じゃない」
どくん、と心臓を鷲掴みにされたような気がした。僕の正体と言うと生前の姿と吸血鬼であるという二通りあるが、彼女が言っているのはまず、後者だろう。
冷汗を流す僕の前で、彼女はどこか見覚えのあるような一礼のポーズを取ると、僕を見据えて言った。
「私は異分子殲滅隊東京区画の所長、青崎だ。吸血鬼、緋彩。君に話がある」




