睡魔
平和回
ひたすら飛び回っている間にどんどん時間間隔は失われていったようで、なんとか冷静を取り戻した時には随分と時間が経ってしまっていた。
まだ幾らか血の気が引いてぼうっとしている頭で、スマホの画面を眺める。時計はもう暗くなりだしそうな時刻を指していて、通話アプリから通知もたくさん届いていた。
当然だけど、相手は鈴。疲れ果てているときのどこかしらのタイミングで、無意識に魅了を切っていたのだろう。気づいたら僕が隣に居なくて、ずっと探し回っていたらしい。
本当に心配させてしまったと思う。鈴には、色々と悪いことをしてしまった。アプリでは「大丈夫」「家で待ってて」と返事をした。直後に既読が付いて、文面でも分かるくらい渋々と了承された。
朝来た時がまるで嘘だったみたいに静まり返った道を、記憶を頼りにゆっくり辿る。いつの間にか赤い警告灯は消えサイレンは鳴りやんでいたけれど、あんな怪物が出た日にもう一度外出するほど肝が据わった人はいなかったようだ。
特に、目に見える脅威として異分子が暴れまわることはまず無い。頻度もそうだし、吸血鬼みたいなこそこそしてる奴らの方がメジャーだし。
……そう考えると、この状況で僕を探してずっと外を駆け回っていたらしい鈴は、相当肝が据わっているのだろう。凄いなぁ、とどこか他人事みたいに思う。
ぴたり、と殆ど脊髄反射で足が止まる。顔を上げてみると、見覚えのあるちょっと古ぼけたマンションが目の前にあった。全容をまじまじと見るのは、二回目。
ほうっと息を吐いて再び足を動かそうとした瞬間、横から「緋彩!!!」と言う叫び声が聞こえた。振り向くよりも早く、ガバっと抱き寄せられる。
安心する匂いがして、ああもう本当にこの人は、とか思いながら返事をした。
「なんで外で待ってるの」
「だって、凄く心配で」
「それに関しては、その、ごめんなさい」
ちょっと痛いくらいに強く抱きしめられて、こんなに心配されたことなんてなかったから、僕もどう対応すればいいのか分からない。若干しどろもどろになりながらも、それでも言わなきゃって思ってた言葉だけはちゃんと出せた。
「えっと、鈴、ただいま」
鈴が僕の頭を撫でた。安心させるつもりで言ったのに、なぜかこっちの方が安心する。一息置いて、鈴が言った。
「ええ、お帰り。緋彩」
「……あの、そろそろ離してくれてもいいと思うんだけど」
「嫌。またいつの間にかどっか行っちゃいそう」
そう言い切った鈴は、離すどころかもっと強く僕のことを抱き寄せた。流石に僕もこれを振りほどく気にはなれないから、黙ってぬいぐるみ扱いを受け入れた。
あのあと部屋に入ってから、鈴はずっとこの調子だ。動くことすらかなわなくなった僕は、特に意味もなく目の前のテーブルに置かれた珈琲の湯気を眺めていた。
カップに向かって手を伸ばす。案の定というか、手は届かなかった。むしろ僕が逃れようとしたと思ったのか、後ろに引かれてさらに距離が遠くなる。
後ろから抱き着かれている以上、鈴の様子が全くもって見えないので、下手に声をかけるのもなんだか憚られた。結局珈琲は諦めて、ぐでっととろける。
鈴の吐息が耳元に当たってくすぐったい。背中に当たる柔らかい感触についてはあまり考えないようにしていると、ちょっとだけうとうとしてきた。
目をしばしばさせていると、それに気付いたのか、鈴がそのままの状態で聞いてくる。
「眠い?」
「色々あったから……疲れたかも」
そう返すと、鈴は黙って僕の頭を撫でた。なんだか、甘やかされてるなあと感じる。鈴がダメ人間製造機なのか、余程僕のことを低年齢に捉えているのか。両方と言う線も捨てきれない。
「…………」
睡眠欲。そういえば、ある。食欲も。僕が知る限り、そして僕の知らない記憶が知る限り、吸血鬼とは無縁のそれだ。もしかしたら、人間のころの錯覚なのかもしれない。
だけれど、自分がこれを無視しようとすればそれが容易であることも、深夜宛先もなくさまよった時に知っていた。そう思うと、自分の存在が酷く希薄に感じた。
結局、今僕を僕たらしめる要因は記憶だけだ。なら、眠って明日目覚めた時に、まるで見ていた夢を忘れるように、自分が居なくなっても不思議じゃないのかもしれない。
珈琲から立ち上る湯気が段々細くなっていく。僕は目を少し細めてそれを見ると、相変わらず僕の頭を撫で続けてる鈴に言った。
「珈琲、冷めちゃうよ」
「……あ、そうだった」
鈴が身体を椅子ごと前にずらして珈琲を手に取る。それで僕も手が届くようになった珈琲を手に取って、口を付けた。苦くて、少しすっぱかった。
「寝る前に飲んで、大丈夫?それとも、カフェインじゃ眠くならないタイプ?」
「……鈴は、寝なくてもいい身体になったら、便利だと思う?」
僕が突然そんなことを言ったから、ん~?と鈴は疑問の声を漏らす。そのあと少し思案して、こう返された。
「便利だろうけど、ちょっと困るかなぁ。だって、緋彩と一緒に寝れる口実が無くなっちゃうし」
それは、半分くらい冗談だったんだと思う。だって、僕は眠れなくなるといったわけじゃないし、便利かどうかとは関係ない気もするし。
ただ僕には、その言葉がすっと浸透してきた。なんというか、鈴の人柄が端的でわかりやすい表現だと思って。僕はちょっとだけ笑うと、こう返した。
「じゃあ僕が寝なくてもいい身体になったら、鈴は苦労しそうだね」
「それは困るなぁ」
僕は珈琲のカップを置くと、睡魔に身を委ねた。
作者の自語りこーなー。僕は自分を自分たらしめるものは記憶しかないと思っています。だから前世とか来世とか、忘れてしまうような自分の過去とか、眠って起きた後の明日の自分とか、全て他人のように思うことがあります。




