お誘い
そろそろお話が動き出すよ~
突然隣からカシュッという乾いた音がして、人間離れした聴覚のせいか、それがあまりにも大きな音に聞こえた。僕は身体を跳ねさせて、そちらに顔を向ける。
視界に入るのはまあ、例に違わず鈴なわけなのだけれど、僕が大袈裟に驚いていたのには気づいていないようだ。だから遠慮せずに、そのままじーと視線を送る。
やがて僕の視線に気づいたのか、不意に目が合った。僕がぱちりと瞬きをすると、鈴の黙ってさえいれば美人な表情がほろりと解けて、笑みになる。
「あげないよ?」
「要らない……ていうか、お酒飲むんだ」
あのあと、特に何事もなく家に着いてから、晩御飯も済ませて完全にリラックスしているときのこと。
アルコールの独特な匂いが漂う。家にお酒を飲む人は一人もいなかったし、病院ではいくらでもアルコールに接する機会はあったけれど、それともまた違う匂いだ。
端的に言って、新鮮な感じだ。お酒の匂いを嗅ぐこと自体は料理酒とかでもあったけど、人が飲んでいるときはまた違う匂いに感じるのは、気のせいだろうか。
アプリのダウンロードやらネットワークの設定やらをせっせと済ませていた僕は、いったんその手を止めてスマホをテーブルに置くと、鈴の隣にするっと移動した。
鼻に意識を集中していたからか、ふわりと甘い香りも感じられた。それにちょっとだけ恥ずかしさを覚えたけれど、多少はこの環境にも慣れたのか、すぐに引いていく。
「……あげないよ?」
「要らないってば」
つむじに視線が刺さるのを軽く受け流しながら、僕はテーブルに広げられていた中から、お目当ての酒のつまみを幾つか盗む。うん、しょっぱい。
「なんていうか、緋彩って、食い意地が張ってるわよね……」
「悪いか……あ、これ美味しい」
机の上に広げられているお菓子類やら、コンビニで見かけるようなおつまみ類はどれも食べたことがないもので新鮮だ。一応味が濃いらしいとかは、小説だかで読んだことがあって知っていたけれど。
一口目はびっくりしてしまうくらいしょっぱいものもあって、一喜一憂しながらぱくつく。すると左頬に突然冷たい感触が当たって、小さい悲鳴と共に飛び上がった。
「ひゃあっ!?」
「食べ過ぎ。私の分がなくなるでしょうが」
「……はーい」
跳ねた拍子に少し距離を開けながら、何かが当たった左頬を抑えつつそっちを向く。呆れた顔で鈴がこちらを見ていて、右手にはお酒の缶。どうやら、それを頬に押し付けられたっぽい。
これ以上は盗まさせてくれないらしい。頬を膨らませて、びっくりさせられた腹いせに鈴の足を足で小突きつつ、諦めてティッシュで手についた脂を拭った。
またスマホとのにらめっこを再開するため、自分のスマホに手を伸ばそうとすると、それを遮るようにしてすぐ横から腕が伸びてきた。そのまま身体に回されて、身動きを封じられる。
「酔うのが早い!」
「酔ってないよ~。私、アルコールには強いんだ~」
「じゃあなおさら、引きはがすのに躊躇はしないけど?」
「そんなご無体なぁ」
密着した部分の感触をあまり意識しないようにしながら、鈴の頬を向こう側に押し返す。それでも鈴が剥がれる様子を欠片も見せないから、僕は首の骨をへし折ることになる前に引きはがすのを諦めた。
なんだかんだ変なところを触ろうとはしてこないので、僕もいくらか素直に諦めがつく。もう隠しもせずに溜息を付くと、両腕の力を抜いた。
鈴は僕の肩あたりに顔をうずめるようにして頭を預けている。なんだか列車で眠気を抑えられなかった人みたいで、思わず吹き出してしまった。
「なにかへん?」
「いや、なんでもない。本当に」
適当を極めたようなごまかし方をしながら、他にやれることもないので、鈴を眺める。呼吸音がはっきりと聞こえて、息が当たる場所がちょっと暖かく、くすぐったかった。
こうしていると、いちいち恥ずかしがるのも馬鹿らしくなってくる。そう思っていると段々リラックスしてきて、僕も少しだけ、鈴の方に体重を預けた。
……それほど長い時間ではなかったと思うけど、僕と鈴はお互い何も言わずに座っていた。部屋は静かで、お互いの呼吸音と心臓の鼓動が全てだった。
そんな環境音にずっと耳を傾けていると、鈴が少し深く息を吸うのを感じて、声を出そうとしているのが分かった。
「緋彩、明日私の会社に来ない?」
「え、流石にそんなところまでお守りできないよ?」
半分冗談で返した言葉の返答として、するっと伸びてきた手に、ぺしりと頭を叩かれた。痛い。
「違う。もしよかったら、私の会社のお仕事手伝ってみないかってこと」
僕は目を丸くする。その提案は僕には願ったりかなったりの申し出ではあるものの、鈴にはなにかとかなりの面倒ごとが付いて回りそうな提案だった。
働かせてもらうとして、身分も明かせていない以上、鈴は納得させるような説明を会社側にできないだろう。だからといって、面接とかで正式に入れるような要素も全くないわけで。
鈴の会社がどういう会社なのかは知らないけれど、それは無理があるのではないだろうか。そんな僕の疑問を、鈴は続く一言で一蹴した。
「私が社長の小企業だから、それくらいの融通簡単に効くし」
「…………」
僕はラグったみたいに、自分の身体を硬直させた。こっちからしたら結構衝撃的だった事実をさらっと言ってのけた鈴は、なんでもなさげに言葉を繋げる。
「魔導具を開発してる会社なんだけど、知り合いの技術者を集めて立ち上げただけの会社だから、色々と人手が足りないのよね。良い人ばかりだから、すぐに馴染めると思うけど……緋彩?」
名前を呼ばれて、はっと鈴に意識を戻す。すると僕の肩に頭を預けた状態のまま顔だけをこちらに向けていて、すぐ目の前で視線がぶつかった。思わず、ぷいっと目を逸らす。鈴はからかうような声で話を続けた。
「緋彩~? 真面目な話だよ」
「わ、分かってます……鈴、社長だったんだね」
「うん。といっても本当に小さな会社なんだけどね、これでもそこそこ成功してるのよ」
鈴がしっかり身体を起こして、ソファーに着いていた僕の片手に両手を覆わせた。僕が視線を戻すと、相変わらずの屈託のない笑顔を向けられる。
「で、どうする?」
……思うところは、少しあった。そんな公私混合してもいいのか、とか。僕に出来るような仕事なんてあるのか、とか。でも多分だけど、これ以外に働き口を見つける方法もないだろうし、鈴の好意を無下にするのもあれだし。それに……。
「じゃあ、その、取り敢えず見学で……」
「ん、決まり!」
鈴と同じ場所で働けるというのは、なんだかいいなと思った。自分でもあまり、よくわからない感情ではあるけれど。
衝撃の事実。鈴がリッチな理由です。




