惚れた側の弱み
ばーんがーいへーん
青天の霹靂、とでもいうのだろうか。そんな言葉を当てはめるには、あまりにもごく普通のことではあるのだけれど。
一人、街をぶらついていた時に、とある少女が目に入ったのだ。それ自体は全く持って珍しくもないことなのだけれど。休日の通りに、同じくらいの年頃の子なんて掃いて捨てるほどいるから。
じゃあなんでその子だけが気にかかったのかというと、理由はそれなりに多岐に渡る。最も単純なところで言うと、その容姿が常軌を逸しているくらい整っていたことだろうか。
あどけなさと凛々しさが完璧なバランスで共存している顔。艶のある一切の乱れがない、背中まである黒髪。幼さを残しながらも、ピンと長いモデル体型の手足。歩く姿はもはや幻想的ですらあった。
ただ、だからこそその身を包んでいる服装は、あからさまに浮いていた。サイズが違うし、そもそも男物なのだろう。デザインや型からして不自然だった。
それに、それほど容姿が整っている少女にも関わらず、決して治安がいいとは言えないこの辺りを、一人で歩いているのもそうだ。何やら挙動不審にしているし。
そのアンバランスさに惹かれて、少し足を止めて、その姿を目で追っていた。もしかしたら良い所の令嬢が、家出でもしているのだろうかと考えつつ。
そして案の定というか、その少女はナンパに合っていた。遠目でもわかるくらい動揺しているのが伝わってきて、あれは禄でも無いことになりそうだなと思った。
助け舟を出した方が良いかなと思いつつ近づくと、声をかけた男が手を引いているのが見えた。それを見た時何と言うか……嫉妬、というのだろうか。そんなものが脳裏を走った。
孤高の花のように美しいその少女に触れている男への嫉妬。そして、芸術品に素手で不躾に触れていることに対する怒り、が織り交ざったような感情だったはず。
「いや~約束の場所に居ないと思ったら、こんなとこに居たのかぁ」
倒れこんだ少女の身体を受け止めた時にそんなセリフが出てきたのは、ことを穏便に収めようという気持ちからではなく、それこそ嫉妬ともいうべき感情から出たものだった。
男の顔を睨みつけ、口は笑って、この少女はお前如きが触っていいような花ではないのだと、嘲笑うように。
「前からナンパには気を付けてって言ってるでしょう? ……そういうわけで、この子私の連れだから、暇じゃないの。じゃあね」
そう言い切ってやると、男はあっさりと怯んで去っていった。その姿が視界から消えた時、正直、残念な気持ちに包まれた。
だってこれで、この少女と私を結びつけるものは失くなってしまったから。腕の中に収められるのもまた一瞬で、すぐ離れて消えてしまうものだと思っていたから。
しかし、腕の中の少女は動こうとしなかった。それどころか、潤んだ瞳でこちらを見上げてきた。妖精のようなその姿に、ぎゅっと、心臓が掴まれたような気がした。
努めて平常心を保ちながら、一応、もうああいう事態が起きないように説教臭いことをした。帰ってきた「知らなかった」という言葉に、私は家出少女という推理が遠くないものだと確信する。
その時に、心の中に黒いものが湧き出たんだと思う。もしかしたらこの少女を、自分の手元に置いておけるのではないかと思って。つい、家に誘った。
少女は名前も何も教えてくれなかったけど、緋彩という私が付けた名前は気に入ってくれたみたいだった。少し迷っているようだったけど、家に来るのも了承してくれた。
端的に言って、それで私は調子に乗ったのだと思う。宝石のような紅の瞳も、驚くほど白くて綺麗な肌も、自分のものに出来るのだと勘違いして。
緋彩は『女性』の前だということを差し引いても、信じられないくらい無防備だった。シャツの襟から覗く首筋からしてもそうだし、歩き姿にしてもそうだし。
家に入った後も、ずっとそのままだった。変なところでしっかり線引きしてくることもあったけれど、総じて目に毒なくらいだ。
ずっと後ろをてくてくついてくるような、小動物みたいな可愛らしさに、幻想的な姿とのギャップを感じて、自分のことを特別に感じてくれているんだと、つい思い込んでしまった。
それで、まぁ、その、こっぴどく怒られた。無理に迫って、ビックリするほど力が強かったこと。一瞬意識が飛んだこと。正座させられて説教されたこと。断片的に記憶が残っているのは、ここら辺。
怒っている緋彩は正直そこまで怖くなかったけど、嫌われているかもというのは、自分でも想像できなかったくらい怖かった。多分、そのことに緋彩は気付いてなかったけど。
自分で思い返してみても、随分と酷いことをしたと思う。ナンパしてた男と、これじゃあ似たようなものだ。舞い上がって、調子に乗って、本当に反省した。
ただ、何よりも後悔したのはこんな事じゃなかった。尚も私は不器用で、そんな内心をひた隠しにして誤魔化して……そうしたら、緋彩がこう言った。
「ここに居させてほしいです。僕は鈴に都合の良いような人じゃないと思うけど、助けてくれたのは嬉しかったし、できることはします。だから……」
その時の緋彩の顔を、私は一生忘れられないだろう。不安そうだとか、泣きそうにだとか、そういうものだったらまだよかったろうに。
……緋彩は、どこか諦めたような、寂しそうな、そんな達観した虚ろな目に私を映していた。仮に私がこれを断ったら彼女は死ぬとして、でも私が断ったら、彼女は「仕方ない」と言って従うのだろう。そんな顔だった。
私は緋彩のことを何一つ知らないが、間違いなく、こんなあどけない少女にさせて良い表情ではなかった。そのときに思ったのだ。緋彩を守ろうと。
こんな表情にさせてしまった贖罪として。この虚ろな絶望を生むくそったれな現実に唾を吐いて、緋彩に綺麗な世界を見せたいと願って。この笑顔を守りたいと思ってしまった。
なにせ、それが惚れた側の弱みだから。
余程疲れていたのか、あれだけ酷いことをした私の腕の中で、緋彩はぐっすりと眠ってしまった。本人の人懐っこい表情が消えた寝顔は、第一印象に最も近い、幻想的な風貌だった。
そっと、湿り気がなくなった髪を指でなぞる。規則正しく呼吸している姿に安心感を覚え、私は羽のように軽い身体を横抱きに持ち上げると、言った。
「おやすみ。良い夢見てね」
ただの変態ではなくメインヒロインなのです。一応ね




