おかえり
青崎所長にお別れを告げてから、私は町の中心近く───突然に出現した巨大な血の球体に向けて駆け出していた。
血の球体が現れてから、街中の吸血鬼達の様子が途端に変化した。まるで何か抗えないものに誘われるように、どれもがその血の球体に身を捧げ始めたのだ。
絶望的な状況に立たされていた街から、あっという間に吸血鬼達が消えていく。けれどそれを簡単に楽観視するわけにはいかなかった。あの血の球体の正体に、おおよその予想がつくからこそ。
緋彩。あの子が立ち去って行った方角と同じ方向に出現したあの血の球体。何となくだけれど、あの球体こそが緋彩そのものなのだと分かった。そしてあの球体が、何かの卵のようなものだということも。
生まれてくるものの正体は分からない。けれど、なんにせよ私はあそこに居なければならないのだ。所長から受け継いだこの力を以て、成すべきことを成すために。
けれど、
「緋彩……!」
これは決して、使命だとか、運命だとか、そんな大層な感情から生まれた決意ではない。
「貴女が吸血鬼の始祖だというのなら、私は……」
ただ一人の友を、救うための決意だ。
意識を現実に戻して一番最初に感じたのは、窒息感だった。
「んんんんん!?」
目を開くと一面の真っ赤。それの正体に一瞬で感づいた僕は、無我夢中で全身に纏わりつく液体の感触を掻き分けた。
「ぼががががが!」
我ながら情けない醜態を晒しつつも、なんとか全ての血液を掻き分ける。
「ぶはっ!」
飛び出した身体は、そのまま勢いに乗って宙へと舞い上がった。あっと思ったのも束の間、一直線に重力に従って、身体が落下を始める。
「ちょちょ、ちょっと!?」
せめてもの抵抗として着地姿勢を整えようとして、自分の身体が何故か上手く動かせないことに気付く。するとどうなるかというと、
「ぶへっ!」
見覚えのある路面に、顔面から着地した。普通の人間なら大惨事の光景だけれど、僕は普通どころか人間ですらないのでへっちゃらである。傷付いたのは路面と、情けない姿を晒した僕の心だけ。
「いたたたた……」
実際にはなんにも痛くは無いのだけれど、なんか気分的にそうぼやきつつ、顔を上げる。よくよく思い返してみると、この街は大惨事になっていた筈である。それが僕の子供たちの仕業だというのなら、止めるのは当然僕の使命なのだけれど……。
まずは周りを見渡す。その後に鼻を鳴らす。最後にまだ残している分の『力』を使って探る。けれども吸血鬼達の気配はちっとも感じられなくて、はっと自分の胸を抑える。
「帰ってきてる……?」
意識を向けた自分の中には、確かにたくさんのあの子たちの気配を感じ取れた。意識を失ってからどうなったのかはさっぱりだけれど、いつの間にか、おおよその解決をしてしまったようだった。
振り返って、自分が飛び出してきたものを見上げる。巨大な血液で出来た球体。目の前のそれ全てが、自分の『力』の支配下にあるのは明確だった。
胸に去来したよく分からない感情に、少しだけぼーっと物思いに耽る。そうしている時、驚くくらい巨大な魔力の気配がすぐ傍にまで迫ってくる。
「緋彩!」
「え、刀香!?」
気配の正体を視界に捉えて、驚きがそのまま声に出た。だって身に纏う魔力の質とか量が、まるっきり別人だったから。そしてその魔力が誰のものなのかを察して、僕は別れた後のおおよその経緯を理解する。
「刀香、その魔力……」
「……分かるんですか?」
「うん。青崎所長のだよね……てことは───」
「あの人とのことについても沢山話したいことはあります。でもそれは、後にしましょう。鈴さんとはどうなったんですか?あの球体と、吸血鬼達は一体……?」
鈴。その名前を聞くと、心臓がぎゅっと縮こまるような感情に襲われる。けれど、大丈夫。お別れは済ませてきたから。深呼吸を一つして、彼女との経緯を説明した。
「緋彩、貴女は……大丈夫、なんですか?」
「辛いし、悲しいけれど……でも、ちゃんと自分の感情と向かい合えてるとは思う。だからきっと、大丈夫だよ」
不安そうに僕を見る刀香の前で、ちょっとだけ強がってみせる。無理はしていない。少なくとも、先に済ませておかなければならない話題を後回しにするほどではなかった。
「それよりも、吸血鬼達のこと、だね。色々と話さなきゃならないことも……謝らなきゃならないことも、あるんだ。すぐ言えることとしては、もうこの辺りには吸血鬼はいないよ。みんな、僕の中に帰ってきたから」
「帰ってきた、ですか……」
僕が選んだ言葉に、刀香がはっとしたような目でこちらを射貫く。その視線を振り切るように、僕は巨大な血の球体に向かい合った。
「取り敢えず、コレは片付けるから」
そう言うと、僕はおもむろに球体の正面へ右腕を突っ込んだ。そこを起点にして、巨大な球体が縮小を始める。
ドクンドクンと脈打つような音と共に、あれだけあった血液がどんどん僕の中へと吸収されていった。自分の質量は変わらないのに、あの大量の血は間違いなく僕の中に取り込まれていく。 不思議な光景だった。
あっという間に、巨大な球体はその身を縮める。飲み込まれていた街並みがそっくりそのままの状態で吐き出されて、一気に視界が開いた。
そして。
「───ぇ?」
開けた視界の先に、一人の女性が横たわっていた。
その人は、あの球体の中に取り込まれているものだと思ったから、反応が遅れて。
しかし、もっとおかしな事実に気付いた。さっきは探知出来なかったくらいに弱々しい反応だけれども、すぐ目の前で倒れている彼女から───『吸血鬼』の気配がしたから。
いまだに上手く動かない身体を必死に操って、横たわる彼女の傍へと必死に駆ける。大して遠くも無い筈のその距離が、永遠にも感じられた。
そうして、彼女の……鈴のすぐ傍に、崩れ落ちる。すると、確かに死んでいたその身体の瞳が、ゆっくりと開いた。
「っ!」
息を呑む。だって、吸血鬼を作るって行為が、生き返らせるというカタチで成功したことなんて一度も無かったから。けれど心のどこかで、「大丈夫だよ」なんて声が聞こえた。
そして、瞳を開いた鈴が、目の前の光景を呑み込むように、何度か瞬く。そうして、不安に囚われて何も言えなくなってしまった僕を見て、たった一言、こう言った。
「緋彩」
縋りつくように、僕は鈴に抱き着いた。その一言に籠められていた想いが、何もかもが、目の前の存在を『鈴』なのだと証明していたから。
すっかり泣き虫になってしまった眦から、涙が零れる。りん、りん、りん、と何度も繰り返しながら、僕は彼女の身体を抱きしめた。
鈴は何も言わずに、泣き虫な僕の頭を抱えて、優しく撫でてくれた。その慣れた感触を味わうごとに、段々と鈴が帰ってきてくれたんだと分かって、荒れていた心が落ち着いていく。
何とか泣き止んで、身体を起こす。その手つきと同じように優しい表情の鈴が、目の前にあった。鈴の瞳の中に、目を真っ赤にする僕が映る。少しだけ気恥ずかしくなって、へへっと笑った。
つられるように、鈴があははと笑った。いつの間にか、雨は止んでいた。鈴が伸ばした手が、僕の髪飾りに触れる。鈴の想いが載せられた、約束の髪飾りに。
「おかえり、鈴」
「ただいま、緋彩」




