緋彩
目を開ける。
最初に感じたのは、匂い。植物の青い匂い。太陽が焼いた空気の匂い。そして、朽ちていく木材の匂い。混ざって感じる、古い血の匂い。
僕の前にあるのは、彼女の記憶の中に鮮烈に焼き付いている、崩壊した大きな屋敷だった。ここが、姫様にとっての、あの病室のような場所なのだとすぐに分かった。
記憶を辿り、匂いに導かれて、僕は敷地の中に足を踏み入れる。そうしてすぐに、小さな背中が目に入った。
僕の記憶にも、彼女の記憶にも、あの体の背中を見た機会は少なかったから、こんなに小さい背中だったのかと愕然とする。けれど同時に、意外だとは感じなかった。
今目の前にいる彼女こそが、きっと等身大の姿だから。あの日、全てを失った時から、ずっと彼女の時間は止まったままなんだ。ひとりぼっちで、心を凍らせて。
だから僕は、隣に座った。
「姫様。約束の続きをしよう」
弾かれるように、彼女が顔を上げた。
「ど、どうやって、ここに……」
「来られるよ。むしろ、来られない方がおかしいもん」
信じられないモノを見る目でそんなことをいう姫様に、胸を張ってみせる。けれど姫様は納得してくれないようで、首をぶんぶんと横に振る。
「だってここは、深層心理で、私だけの場所で……ただの記憶が、立ち入れる場所じゃない!」
「ただの記憶じゃない。だって、君が僕に願ってくれたから」
どうにも彼女は、僕のことを彼女が今まで収集してきた記憶たちと同じだと思っているようだったから、断固としてそれを否定するように、真っ直ぐ視線をぶつけ合わせた。
「僕は自分の意思で君に記憶を差し出した。そして君が願ったように、君の『僕』になりたいって願いを受け入れた」
姫様の記憶を辿って見た、ひとつの勘違い。それを真正面からはっきりと、僕自身の口で否定してみせる。
「姫様は、僕の記憶を勝手に弄って自分に都合が良いようにしたって思ってたみたいだけど、それは間違いだよ」
「そんなことない!貴方だって、『緋彩』の記憶を見たでしょう!」
記憶の全部を通しても殆ど見なかったような悲痛な声で、彼女は叫ぶ。
「私はバケモノ!吸血鬼を大量に世界にばら撒いて、沢山の命を奪った!奪われる側の辛さを知っていたのに、貴方と出会うまでそもそも命を奪っているってことすら認識してなかった!魔族は憎かったけれど、その全てが悪人じゃないだなんて少し考えれば分かることだったのに……」
「姫様……」
「なにより許せないのは、そんなことをしたバケモノのくせして、今更貴方達の仲間になりたいだなんて思って、貴方の記憶を利用した……交わした約束だって、都合良く忘れて……」
少女は身を縮めて、両手で目を覆う。それでも溢れ出た涙の粒が、ぼろぼろと地面に零れ落ちた。
「もう、自分が嫌なの。何もできない。間違えてばかり。何かを得たって、すぐにまた失ってしまう。約束ひとつ、守れない……!」
だから、と。涙で濡れた瞳に揺らぐ灯りを宿して僕を見る。
「もう、終わりにしたい。これ以上間違えないように。これ以上失わないように。そうするための方法が、コレ以外に分からなかった」
魔力の始祖となった紅血族は、本質が記憶だから、彼女は最初の自刃で自分を殺しきることが出来なかった。霧散する前の記憶を搔き集められて、またひとつに戻されてしまった。
だから今度は、混ぜ合わせてしまうつもりなのだ。外に居た吸血鬼たちを全部出鱈目に取り込んで、境界線も全て取っ払って、ぐちゃぐちゃにくっつける。そうして、自我のない大きなナニカになろうとしている。
けれど、そんな最後、僕には認められない。
「誰も許さないっていうなら、僕が君を許すよ」
「……え?」
「何もできなくたって、いつかできるようになればいい。間違えてばかりなら、またやり直せばいい。失ってしまったなら、取り戻したり、新しいモノを求めたっていい」
姫様の、細くて震えている手を取る。僕に宿る熱を、今度は彼女の方に分け与えられるように。
「約束が果たせないのなら、ごめんなさいして、また約束を結び直せばいい。きっと、それでいいんだよ」
「そんな、簡単にっ」
「簡単でいい。いきなり難しいことなんて出来ないんだし。急ぐ必要だってないんだ。出ないと、大事なことを見落としてしまうから」
恐怖に駆られて、いくつの大事なことを取りこぼしたのだろうか。数えきれないくらい取りこぼしてきたそれを、振り返りもせずに捨て置いてここまできた。
そんな僕たちに必要なのは、終わりにするなんてことじゃない。
「過去は逃げたりしないよ。だから、一旦立ち止まってもいい。そうして……ね、振り返ってみて」
姫様の手を取ったまま、僕は立ち上がった。そうして屋敷ではなく、敷地の外に目を向けて見せる。僕を習うように姫様も目を向けて、そこにあった光景に肩を震わせた。
「お父様、お母様、ヴィーラ、それに……みんなも」
崩れ去った街並みは、いつの間にか元通りになっていた。荒らされつくした庭も元通りになって、花壇には綺麗な花が咲き誇っている。
懐かしい風が吹いた。どこからともなく運ばれてくる、雑多な匂い。記憶のままの姿で、かつての人々が、光景が、僕達の目の前に広がっていた。
「……姫様。僕たちは、この光景を本当に忘れたりなんてしないよ。僕だって、鈴のことをもう忘れたりなんてしない。こうやって、立ち止まって、振り返れば……きっとすぐに思い出せる」
「……」
「沢山間違えちゃったから、きっと、やり直すのにもそれ以上に長い道のりが必要になると思う。だからこそ、さ。今度こそゆっくりと歩いてみよう。疲れた時は、立ち止まったり、振り返ったりしながらさ」
「……それで、いいの?」
「勿論。だからさ、約束!」
宣誓するみたいに、繋いだままの手を太陽に向けて持ち上げる。
「世界を見て回ろう!新しい大切なモノを沢山作ろう!沢山やり直して、間違えた以上に正解しよう!あの日の約束の続きを、僕と一緒に続けよう!」
ちょっと苦手だけれど、思いっ切りの笑顔を浮かべて見せる。それが僕の、一番最初にやり直したかったことだから。
「貴方は……陽凪は……どうしてそこまでしてくれるの?」
ぼうっとした顔で僕のことを見ていた姫様が、絞り出すような声でそう聞いてきた。だから、悪戯が成功した時みたいに、とびっきりの答えを返してみせる。
「もう、僕たちは二人で一人の『緋彩』だから。悪いことも、良いことも、大切なことも、全部僕たち二人のモノだから」
「あっ……!」
「誰かに許されたいなら、まず最初に自分が自分を許してあげないといけない。だから僕が、一番最初に君のことを許してあげる。辛いことから立ち直ろうと思うなら、まず自分の足で立ち上がろうとしないといけない。だから僕が、一番最初に君のことを支えてあげる」
繋いだ手を見る。立ち上がった足を見る。ここでの心象風景は、今口にしたことの第一歩だ。『緋彩』に必要なことを、焦らず、一歩ずつこなすための。
「姫様。改めて、もう一度僕と『緋彩』になってほしい。今の僕たちに必要なのは、あの子の居る場所だから」
今度は、姫様の方から真っ直ぐに僕へ視線をぶつけてくれた。そうして一呼吸、二呼吸して、ふっと、解けるように笑顔が浮かんだ。
「陽凪。きっと私にも、『緋彩』が必要。だから、これからよろしくね」
太陽を背に受けて、陽凪がキラキラと輝く笑顔を私に向ける。
ずっと灰色だった世界が、一気に鮮やかな彩色を取り戻したみたいだった。そうして初めて、私は本当の意味で自分の過去と触れ合った。
ふと、最後のパズルのピースが嵌るように、私の中で一つの答えが浮かび上がる。けれど完成したそれは、きっと私たちにとっては過ぎた力で。
「陽凪」
「どうしたの?」
「私の『力』、殆どはここに置いていこうと思う。きっとこれは、行き過ぎた力だから」
「……うん。そうだね」
そんなことを言いながらも、私はこっそりとその『力』を発動させる。きっと最初で最後の、一回切りの奇跡を。まるで悪戯の仕返しをするみたいに。
「それじゃあ、いこっか」
「ええ」
そうして私たちは、意識を現実に向けて浮上させた。




