裏切り
死を待つだけの病室で、僕はただ意味も無く意識を繋ぎ留め続けていた。
外はすっかり暗くなってしまっていて、自分が案外予告されたよりも長生きしてるんだなと気付く。言うなればそれは、意地のようなものだった。変わる筈の無い運命への、ほんの少しの反逆。
そんな小さな反逆が、彼女を引き寄せた。
「……綺麗」
僕の口から、自然とそんな言葉が漏れた。それくらい、月光を背負って現れた彼女は綺麗だった。お人形のように精緻な美貌に、真っ赤なドレス。爛々と輝く紅の瞳に、真っ白な肌。
僕たちは、まるで時間が止まってしまったかのように見つめ合う。先に時を動かしたのは、少女の方だった。
「……貴方、死ぬの?」
人の喉から響いたとは思えないくらい綺麗な声にドギマギしながら、何とか返事する。
「う、うん。というか実は、こうして意識を保ってるだけでも結構辛くて……なんとか、お喋りくらいは出来るけど」
「そう……」
窓枠を乗り越えて、少女はふわりと室内に足を踏み入れた。そして流れるような仕草で、ベットの縁、僕の足が伸びている辺りに腰を下ろした。
「えっと、君は?」
「私は……そうね、吸血鬼よ」
「え……嘘だぁ」
突然飛び出したカミングアウトに、心臓が跳ねる。でも彼女の立ち振る舞いと、義務教育で習った吸血鬼の姿とが全く一致しなくて、おかしな冗談だなぁと思う。
「嘘ではないわ。ほら」
「わっ、ほんとだ」
すると突然、少女がぱかっと口を開いた。その奥から覗いていた、あり得ないくらい鋭い犬歯を見て、習ったことのある吸血鬼の特徴と姿を一致させる。
それに今更気づいたけれど、外では吸血鬼が侵入したことを表す真っ赤なサイレンが鳴り響いていた。諸々を鑑みるに、どうやら目の前の少女は吸血鬼らしい。
「すごい。初めて見た」
「そんな簡単に……いえ、今のあなたには別にどうでもいいことよね」
「まあ、そう。だって僕、こんなだし」
全力を振り絞って、腕を持ち上げて見せる。有り得ないくらい細いそれは、目の前の吸血鬼の少女よりも白いのではないかというくらい、病的な白さをしていた。
「なんだか、変な感じね。あなた、死ぬのは怖くないの?」
「うーん、そりゃ、怖いけど……今、ちょうど意地を張ってたところだから」
「意地?」
「うん。助かる可能性というか、希望みたいなのが全部無くなってさ。それでようやく、意地を張ろうって思ったの。本当は多分、今日の昼くらいに死んでたんだ。けど、ちょっとでもお医者さんの予言をずらしてやろうって思って」
「何となく、分かるわ。あなたの気持ち」
「そっか。結構、吸血鬼と人間って変わらないんだね」
性格という部分ではやっぱり習った吸血鬼の姿と一致しなくて、弱々しい笑い声が溢れた。人間と吸血鬼の争いはずっと昔から続いているらしいけれど、今はそれが信じられない気分だ。
ひとしきり笑ってから、少女の方に視線を戻す。交わった視線の先にある彼女の瞳は、どういうわけか、酷く揺れていた。
「どうしたの?」
「……っぁ、私、は」
少女の手が、僕の顔に向かって伸びてきた。血を吸われるのかな、と思ったけれど、それはそれで抵抗する意味を感じなかったから、されるがままにする。
ひんやりとした感触が、頬を撫でた。少女はそこにある体温を確かめるように、指先で何度も僕の頬に触れる。くすぐったさに、ちょっとだけ身体が震える。
「あ、ええと、大丈夫……?」
「ん、ちょっとくすぐったかっただけ」
「あなた、生きてるのね」
「うん。もう少しだけね」
「そっか……」
吸血鬼の少女がこんな風に触れてくる理由も、言葉をかけてくる理由も分からなかったけれど、その『分からないこと』が、今の僕にはなんだか心地よかった。
「ごめん、なさい……!」
「え?」
気付いたら、吸血鬼の少女はその紅の瞳からぽろぽろと涙を溢していた。僕はなにか気に障ることを言ってしまったのかと慌てる。
「あ、ええ!?その、な、泣かないで……?僕、あんまり人とお喋りするの上手じゃないから、なにか、変なこと言っちゃったかな……?」
「ぅ、ぅぅん、こっちの話。あなたは、なにも悪くないわ」
「そう、なの?それでも、そんなに泣かれると、心配だよ」
「あはは……優しいのね」
口下手なりに何かできることはないかとおろおろして、結局ハンカチ一つ差し出すことが出来なくてへこむ。そんな僕を見て、少女は少しだけ笑ってくれた。
「少しだけ、独白してもいいかしら」
「うん、勿論」
「私ね、ずっと長い間ひとりぼっちだったの……いいえ、違うわね。ずっと、ひとりぼっちだと勝手に思い込んでいたの。けれど、あなたを見て、それが勘違いなのかもしれないって、今気付いた」
「そっか……なんだか、羨ましいな」
「え?」
「僕は、ひとりぼっちだから」
驚きのまなざしを向けられる。少女の独白につられるようにして、僕も自分の中のわだかまりを吐き出した。
「希望が絶望に変わっちゃうのが怖くて、みんな、遠ざけちゃった。けど、本当はそんなのより、ひとりぼっちの方が何倍も怖い。もううちょっとだけ早く、それに気付けてればなぁ」
「……大切な人たちに、看取って欲しかったのね」
「うん。ひとりじゃないなら、きっと、怖いことなんて何もなかった。変な所でばっかり意地を張ってさ、僕って、ばかみたい……」
言葉にしてしまったせいで、最後の意地すらも剥がれ落ちて。残った剥き出しの僕は、情けない顔でぼろぼろと涙を溢していた。
「そう……あなた、名前は何て言うの?」
「僕?……陽凪。君は?」
「私は、姫って呼ばれていたわ。それが私の役目を指す言葉でもあり、名前でもあるの」
「姫様、ありがとう。ついさっき会ったばかりだけど、姫様に看取られるのは、結構嬉しいかも」
「あっ……」
僕は身体の力を抜いて、ゆるりと目を閉じる。眠気にも近いような、思ったよりも優しい死の感触が、すぐそばに迫ってきているのを感じた。
最後の意地すらも剥がれ落ちて、抗う意味を失った死の気配に、ゆっくりと身を委ねる。けれどそれよりも先に、ふわりとした柔らかい感触が身体を覆った。
「う、えぇえ!?あ、ええと、姫様……?そんな風にギュっとされるのはその、嬉しいというか、恥ずかしいというか」
「陽凪」
「は、はい」
首元で名前を囁かれて、死ぬ直前だとは思えないくらい全身の血流が駆け回った。そんな僕の内心を知ってか知らずか、そのまま姫様は首元で囁いた。
「あなたの血を、私に頂戴」
「え、まあ、それは勿論いいけど」
なんなら最初からそうされるもんだと思っていたから、今更の彼女のセリフに気の抜けた声で返事した。
「それだけじゃない。私に血を吸われるってことは、あなたの記憶も貰うってこと」
「え、そうなの……?なんだか、不思議な感じだね」
そこまで他人視点で面白いような人生だとは思えないけれど、今更自分の人生を覗かれるくらいで嫌がったりはしない。それよりも、最後を看取ってくれる彼女に、少しでもお礼になるものを残したかったくらいだ。
「いいの?」
「うん、いいよ。あのね、僕、ずっとこの都市だけじゃなくて、世界の色んなところを巡ってみたいって思ってたんだ」
「素敵な夢ね」
「ありがと。だからさ、僕の記憶だけでも外に連れて行ってくれるなら、それって凄く嬉しいことだと思うから」
「分かった……陽凪、約束」
「約束?僕の記憶を連れて、世界の色んなところを巡るっていうのが?」
「ええ、約束。あなたの記憶に、広い世界を見せてあげる。だから、代わりにあなたの血を頂戴」
どこで知ったのか、姫様は僕の目の前に小指を差し出した。その小指に、自分の小指を結ぶ。小指を通じて、温かい気持ちが僕の方に流れ込んでくるような気がした。
「ん、約束……姫様、ありがとう」
「私も、ありがとう。陽凪」
小指を解いて、今度こそ目を瞑る。一呼吸置いた後に、首筋にちくりとした感触が走った。
約束、したはずなのに。
息絶えた陽凪の傍で、私は流れ込んでくる記憶の奔流に飲まれていた。
ほんの数分、会話しただけの彼の記憶は、気が遠くなるくらいの時間、孤独に苛まれた私の心には暖かすぎて。
私は、彼になりたいと思ってしまった。
だから、自分に都合の悪い記憶だけを封印して。
私は『陽凪』を裏切り、『緋彩』を作ってしまった。




