決別
全てが失われていく物語が、こちらをじっと見つめていた。その視線から逃れるように、僕は清潔なベットの上でうずくまって震えていた。
何もかもが真っ白な、僕の記憶にとって一番長い時間を占める病院の一室。居場所でもあり、牢獄でもあったそこの唯一違うところは、この病室に外が存在しないこと。
カーテンの隙間からは、がらんどうの闇だけが広がる。ずっと憧れていた、広い世界。それすらも失ってしまったのならば、ここに残る僕はいったいなんなのだろうか。
自分の身体を見つめる。この部屋みたいに真っ白で、弱々しい、『陽凪』の身体。まるで『緋彩』として生きていた時間が夢だったみたいに、ただの陽凪がそこにいる。
僕はまたひとりぼっちになってしまった。
なのに。
「陽凪」
開くはずのない扉が開いていた。存在しない筈の外から、彼女は現れた。
「待たせてごめん」
もう二度と聞くことがないと思っていた声に、僕は顔を上げる。
背中までありそうな艶のあるロングの髪と、モデルのようなスタイル。釣り気味の瞳と、それに反するようにとても優しい顔。
「───鈴」
僕を拒絶したはずの彼女が、そこに立っていた。
僕の身体が勝手に逃げ出すように、壁際に追い込まれる。
「い、いや」
数えきれないほどの感情が渦巻いて、そんな短い言葉で出力される。有り得ないくらい混乱する頭の中に、どこか冷静な自分も混ざりあっていた。
待たせてごめん。目の前の彼女が言った言葉の意味を、僕は理解できない。したくない。だって、それは『期待』だったから。ずっと裏切られ、僕を絶望させ、傷付けてきた感情だったから。
なのに、頭は考えるのを止めようとしない。震えていた身体はさっきまでの様子が嘘だったみたいに静かになる。
それは、きっと。
『緋彩』が与えてくれた時間が、鈴と過ごす時間の温かさを教えてくれたから。
僕の隣に、鈴が腰を下ろした。病室のベットで腰を並べて、いまだに鈴の顔を直視できない僕の隣で、鈴は明るくこう言った。
「陽凪。話をしよっか。あの日に出来なかった話を、沢山」
膝を抱えて、自分の顔をそこに埋める。舌が固まったみたいに、なにも喋ることが出来ない。そんな僕の隣で、鈴はひたすら優しい声で語り続けた。
「私ね、陽凪に沢山謝らなきゃならないことがあるんだ」
ぎゅっと膝を抱えたままの僕の手に、温かいものが触れた。
「病気を、治してあげられなくてごめんなさい。ここから逃げ出してごめんなさい。『緋彩』を信じてあげられなくて、ごめんなさい」
僕の心に残る酷い傷跡をなぞる様に、声が僕の鼓膜を揺らした。
「貴方をひとりぼっちにして、ごめんなさい」
「っ……!」
痛みに堪え切れないように、僕の口から声が漏れた。
「さみしかった!」
嗚咽を塗りつぶすような、大きな声が出た。
「死ぬのは怖かった。でも、病気なんて治らなくたってよかった!」
堰を切ったみたいに、感情が溢れた。
「『緋彩』のことを信じてくれなくたってよかった!悲しかったけれど、そんなのいくらだって耐えられる!ただ……」
鈴はそんな僕を、黙って見つめていた。
「死ぬ時に、隣にいて欲しかった」
「嘘でもいいから、最後まで期待させて欲しかった」
「少しでも多く話をしたかった」
「鈴の笑顔を沢山見ていたかった」
「ひとりぼっちは、いや」
手に触れていた温かいそれを、僕は掴み取った。
「ひとりにしないで」
あの日届かなかった感情を、カタチにした。
「───ごめんなさい。私は臆病者だった。卑怯者だった。陽凪の傍にいるだけでよかったのに、あの日の私はそれすらも出来なかった。陽凪の病気を治せなかった自分を受け入れられなくて、どうやって逃げ出すかしか考えてなかった」
あの日に足りなかったモノを埋め合うように、僕達は体重を預け合う。
「あのね、私の会社の研究も、本当は陽凪の病気を治すための研究の延長戦だったの。それすら間に合わなかったんだから、言い訳にもならないんだけどね」
自嘲するような声を否定するように、ぎゅっと握る手に力を籠めた。
「けれど、ね。これだけは伝えたかった。陽凪の傍にいない時も、私は陽凪のことばっかり考えてた。陽凪のことを少しでも忘れないように、ずっと研究を続けてた」
僕の心にまで、温かさが伝わってきた。
「緋彩のことも、どこかで陽凪に似てるなって思ってた。陽凪のことを忘れて代償行為として緋彩を利用してるみたいで、ちょっと自己嫌悪したりもしたけど、それがまさかこんなことになるなんてね」
僕は顔を上げて、目の前の鈴を見た。この鈴は、吸血鬼の力で取り込んだ鈴の記憶が、カタチになったもの。だから、僕の記憶も緋彩の記憶も、今までの全部を共有していた。
見ないようにしていた鈴の記憶に、想いを馳せる。そこには、僕がずっと望んで止まないモノが沢山溢れていた。僕と接していた時の鈴の感情や、僕と離れた後の鈴の想いが。
そうして、僕は気付いた。物理的な距離なんて、何の意味もない。時間ですら、この想いを引き裂くことなんてできやしない。全部が全部、僕の勘違いでしかなかったのだ。
自分を自分たらしめるものが記憶なのだというのなら、鈴はずっとそこに居た。鈴だけじゃない。今まで僕に『期待』を抱かせてくれた者達も、いつの間にか疎遠になってしまった両親だって。
たとえこれから歩んでいく未来で、もう二度と姿を見ることがないんだとしても。
記憶の中に、みんなはずっと残り続ける。記憶の中で、ずっと傍に居てくれる。
僕はずっと、ひとりぼっちなんかじゃなかった。
涙があふれた。温かい涙だった。
悲しいから泣くんじゃない。温かいから流れる涙が、僕の頬を伝った。
「鈴」
「なに?陽凪」
「大好き」
僕は、ベットから立ち上がった。鈴は座ったまま、僕を見上げていた。
「陽凪、行くのね」
「うん」
鈴は記憶でしかないから、連れていくことは出来ない。それなのに、あれだけ辛かった決別の言葉が、あっさりと口から出た。
「陽凪がもう死んじゃったんだとしても、『緋彩』はまだ生きてるから」
「友達、出来たのね」
「うん。喧嘩しちゃったんだ。だから、仲直りしに行かないと」
「それと、あのお姫様のこともね」
「うん。多分、あの子も囚われたままだから。あの子が居ないと、『緋彩』じゃないから」
ベットに座った鈴を、立った僕が見つめる。いつもは逆だったから、不思議な感じがして、少しだけ笑い声が出た。つられるように、鈴も笑った。
僕は扉の方に、部屋の外に身体を向ける。過去と決別するように。温かい記憶を沢山胸の中に置いて。いつだって思い出して、想いを馳せられるそれらに、背を押してもらう。
この部屋を出ると、もう二度と鈴と会話することは出来ない。それでも、怖くはなかった。鈴はずっとそばに居てくれるから。これから先の未来、ひとりぼっちになることなんてたった一瞬だってあり得ないんだから。
だから、「さよなら」っていうのは間違ってる。僕は、ここでずっと待ってくれている鈴に相応しい言葉を思い描いた。
「行ってきます!鈴」
「いってらっしゃい!陽凪」




