動機
僕のお話に、善意100%のお人は出てきませぬ
「さ、入って入って」
「ん……お邪魔します」
案内された家は、ごくごく普通のマンションだった。それなりに年季が入ったコンクリートと、街中を歩いているとどこからともなく漂ってくるような、懐かしい匂いが特徴的だった。
薄いオレンジ色で塗られた壁面も、特に珍しいタイプのマンションではなかった。ただ少し驚いたことがあるとすれば、部屋のある階がかなり高かったところだろうか。
階段を上るうちにちらっと下を見ることがあったのだが、つい数刻前にやった紐無しバンジーを思い出して震えてしまった。仮に足を滑らしたとしても、ノーダメージなのは変わらないけど。
「えっと、一人暮らし?」
「そうよ~。だからまあ、遠慮せずにくつろいじゃって」
玄関には同じサイズの靴しか置いておらず、誘われた時からたぶんそうであろうとは思っていたけど、一応聞いておく。帰ってきた返事は予想通りのもので、少し肩の力が抜けた。
同居人がいたら、流石に出会ったその場で、独断で一人同居人を増やそうとはならないだろう。それが分かっていたからこそ、居候を渋った部分もあったのだけれど。
案内された部屋は、正直予想していたような女性らしい内装ではなかった。ミニマリストなのだろうか、全体的に家具が少ないし、色合いも地味だった。
メンタル男性なこっちとしては落ち着くんだけど、鈴さんはこれでいいんだろうか、と疑問にも思う。他に女性の部屋へ入った経験が多くあるわけでもないから、ただの深読みかもしれないけど。
「荷物、そこら辺の床に適当に置いといていいわよ。飲み物何かいる?コーヒーとお茶と……コーラとモンエナもあるか」
「適当……あ、じゃあ……コーヒーお願いしてもいいですか?」
「おっけ~。ミルクと砂糖どうする?」
「ん、いらないです」
「……いらない?ブラックってこと???」
「はい……あ、ブラック無いなら別に」
「そこはバリスタだから問題ないんだけど……ちょっと、意外」
意外、かぁ。本格的に何歳に見られてるのかが気になってきた。小学生……ってほどではないと思うけど、最悪中学生とかだろうか。大学生くらいには思っておいてほしいけど、高校生くらいで見積もっておいた方がいいのかもしれない。
その場で待っててもなんだか居心地が悪いし、台所へ向かっていく鈴さんの背中を追いかけて、身長高いなぁと再び思いつつ、一緒に部屋を出る。
「あら、付いてくるの?別に待ってていいのに」
「待っててもやることないですし、自分でもできるように色々見ときたいですし」
「ん~~~~いいこ。あとで撫でてあげるね」
「あの、もしかして猫を拾ってきた感覚なんですか……?」
自分の頭から猫耳が生えた姿を幻視する。連れてこられた理由といい、ノリの軽さと言い、ありえないと言い切れないのが悔しいところだ。
聞かれた本人はまたしても、笑って雑に流してくる。でもその緩い態度とは裏腹に、コーヒーを用意する手はてきぱきとしていた。
棚からすっと無地のカップを出すと、いつもの癖なのか、一瞬だけ調味料が置いてある棚に視線を泳がせる。でもすぐに視線を戻すと、バリスタにコップを設置して幾つかボタンを押した。
そして自分の分はというと、冷蔵庫から缶のモンエナを取り出して開けると、それに口を付け始めた。どんな生活を送っているのか、軽く心配になる。
「はい」
「ありがとうございます」
お互い部屋に戻って、ソファーに並んで腰掛ける。客を呼ぶことはよくあるのだろうか、そこそこの幅があるそれに、少し距離を置いて座った。
僕も、渡されたコーヒーに口を付ける。なんというか、日常的に摂取していた匂いと味に、ほっと息をつく。なにげに『人の食べ物』を口にしたのは、こうなってから初めてだ。
「……美味しい」
吐息と共に、そんな声が漏れた。特に疑問もなくコーヒーを口にしたけれど、血を美味しく感じたように、味覚は変わっていたわけで。人の食べ物を美味しく感じれる味覚が残っていたことに、こっそり安堵した。
「ふふ。そんな手抜きでいいなら、幾らでも淹れてあげるわよ」
「いえ、次からは自分で淹れるので大丈夫です……コップは、これを使えばいいですか?」
「えーもっと甘えてくれてもいいのに……コップは好きなの使っていいよ~」
あ、あんまり間接キスとか気にしないんだろうか。まぁでも、毎回洗うんだったら確かに気にならなさそうだけど、変に意識してしまう。
自分用のコップ買うことになりそうだなぁと考えつつ、お互いちょっとの間、無言で飲み物に口を付けていた。脳内ではひそかに、働き口を確保する手段を思案したりしていると、鈴さんが突然、こんなことを言った。
「……随分と長く出歩いてたみたいだけど、シャワー浴びないの?」
「ん、匂い、気になりましたか?」
「そうじゃないんだけど……汗でべたべたなのに、遠慮してないかなって」
「あ~……」
正直、浴びたい気分ではある。なんだけれど、他人の家で無防備な姿になりたくないという気持ちもあって、なかなか言い出せないでいた。
どのみち借りるしかないから問題の先延ばしにしかならないんだけれど、心の準備が出来ずに尻込みしている。とっとと腹くくってしまったほうが楽そうではあるのだけれども。
もう殆ど中身が空のカップを睨みながら悩んでいると、「まぁ、それならそれでいいけど」という呟きが聞こえてきた。
その言葉の意味が掴めず、コップに向いていた視線を上げる。すると、想像していたよりも数倍近い場所に、鈴さんの顔があった。それこそ、キスでもできそうな距離に。
えっ、と驚きの声が漏れる。反射的に距離を取ろうと下がるけど、ソファーに着いた手を手で上から抑えられ、そのまま押し倒された。
「ひゃ……り、鈴さん……?」
「んぅ……大丈夫、動かないで」
僕の心臓は全く持って大丈夫じゃないが!?
甘い匂いが嗅覚を全部埋めた。緊張で動けない僕をよそに、鈴さんは僕の首筋に顔を寄せる。くすぐったさと柔らかい感触に、ビクンっと身体が跳ねた。
「ふあぁ……!」
思わず身をよじろうとしたけれど、手も、足も、全部鈴さんに抑えられて動けない。むしろ抵抗した四肢がぞくぞくして、変な声が出てしまった。
鈴さんが息を吸う音がして、首筋に快感が走る。今まで感じたことがないくらいのそれに、頭がくらくらして、身体が一気に熱くなった。
「可愛い……私、緋彩の匂い好きよ」
「りんさんっ、だめ、だめだってぇ」
「もう、家賃替わりだと思って欲しいな……どうせ他に行ける場所無いんでしょ?ほら、優しくしてあげるから」
鈴さんの手が僕の手を離れ、肌を伝って、ゆっくり下に伸びてくる。問答無用の姿勢に、僕は声を上げた。
「ダメだっていってんだろ!!!!」
加減のできない怪物の膂力が顔を出し、思いっきり鈴さんの身体を押し出すと───鈴さんが壁際まですっ飛んで、ゴッッッ!!!というエグイ音を立てた。
馬鹿め!そいつは攻めだ!




