責務
まるで深海のような暗い記憶の坩堝に、意識がゆっくりと沈んでいく。
知らない記憶達が泡のように底から浮上してきては、渦巻き、弾け、身体を掠めては離れていくのを、ぼんやりと眺める。全身を包む感触は、微睡みのように優しい。
このまま永遠にでも浸っていたくなるようなその微睡みに、より深く意識を沈めるように、瞼を閉じる。穏やかに底へと引かれるまま身を委ね、意識を閉じようとしたその時。
誰かに呼ばれたような気がした。
意識が急速に浮上していく。いつもなら延々と引きずり戻してこようとする微睡みの力が、今日はやけに弱いような気がした。
背中に当たる羽毛の柔らかさを感じながら、瞼越しにでも主張してくる朝日の眩しさを防ごうと、腕を顔まで持ち上げる。ゆるりと回転しだした頭が、それらの違和感を吟味して。
「───いけない!」
「おっと」
寝坊した!と布団を押しのけて飛び起きた瞬間、すぐ隣から声がした。女性にしては少し低い、よく聞き慣れた声。
私はぴしりと身体を固めると、取り繕うようにゆっくり深呼吸をする。そうして、若干の不機嫌さが隠しきれていないかもしれない笑顔を急造すると、声の主へと向かいなおった。
「貴女、もしかして、ずっとそこに居ながら何もせず眺めていたのかしら?」
視線の先、中性的で鋭利な美貌を携えて、使用人服に身を包んだ女性は、澄ました顔で返事した。
「私の記憶が正しければ、もう寝起きの手助けは必要ないと自身の口で言っていましたよね、姫様」
「…………」
言った。確かに言った記憶がある。寝起きでまだ本調子ではない頭では不利だと悟った私は、沈黙で返した。そんな私を見て、使用人の女性はふふっと柔らかな笑顔を浮かべながら暖かい濡れタオルを手渡した。
「そう不貞腐れなくても、まだそう遅い時間ではありませんよ」
「ふ、不貞腐れてなんかないわ!それに、寝坊は、寝坊だから……大きいも小さいもないの!」
「あら、あら、ええ、そうですね。姫様は立派ですよ」
「取ってつけたように言わないの!」
ささっと素早く顔を拭うと、濡れタオルを使用人の女性にぺしっと突き返す。それはするりと折りたたまれて、瞬く間に片腕へと収納された。
「ごめんなさいね、姫様。本当に自分で起きられるのかどうかつい気になってしまいまして、意地悪してしまいましたね」
「……私が悪いんだから、貴女が謝ることはないでしょう」
「ふふ、姫様は優しいですね。さあ、行きましょうか。ご両親も、既に朝食の席についていますよ」
使用人の女性に手を貸されて、布団から立ち上がる。幾分か高い位置にある彼女の顔を見上げて、私は頷いた。
「なら、急がないとね───ヴィーラ」
何かを忘れている気がする。
そんな感覚にとらわれたのは、日差しが心地の良い昼下がりの頃だった。廊下を進む足が止まり、違和感の正体を掴むように外の景色を眺める。
思い返せば今日は、朝の寝坊と言い、調子が悪い日だった。寝起きの不調と言える時間も既に過ぎ去っていて、なのに頭の中のわだかまりはしつこく付きまとってきているように感じる。
「おや、今日の我が家のお姫様は、なんだかぼんやりとしているね?」
冗談めかしたそんな声かけに、私は振り返る。
「……お父様」
紳士然とした恰好に、柔な笑顔を浮かべたお父様が、いつの間にかそこに居た。音がよく響くここの廊下でそうなら、確かに私はぼんやりしていたのだろう。
「それが、何かを忘れているような気がして……今日は、予定も特になかったわよね?」
「その筈だよ。まさか君だけでなく、ヴィーラまでうっかり物忘れしているなんてことはないだろうしね」
「そう、よね……」
そう、紅血族の『姫』として生まれた私は、ひと月先の予定だって、あのしっかり者の使用人が把握している。たとえそれが私の個人的で些細な用事だとしてもだ。
だというのになおも不安を手放すことが出来ない私を見て、お父様がふむ、と顎に手を当てて唸った。
「そういえば最近、君をあまり外に連れ出してやれてなかったね。お勉強続きの割に、少しこの屋敷に閉じ込め過ぎてしまったかな」
「そんな、私、お勉強は好きよ。ただ、言われてみれば……少し、外の空気が恋しいのかも」
「なら、こうしよう。この後、少し外出する用事があってね。どうだろう、僕と昼下がりの散歩というのは」
「わっ、素敵ですわ、お父様!」
大好きなお父様のそんな提案に、私はすぐさま飛びついた。
ヴィーラの手で久しぶりの外出用の服装に身を包み、同じく外出用の装いのお父様と石畳の通りを歩く。風がどこからともなく運んでくる雑多な匂いに気分が高揚した。
思わず午前に習ったダンスのステップを踏み出してしまいそうな心を抑えて、煉瓦作りの家屋に挟まれた景色を見渡す。大柄な人、子連れの女性、色んな人がすぐ傍をすり抜けていく。
「ふふ、上機嫌だね」
「ええ、だって、何回見ても素敵な光景だもの。しかも、隣にはお父様が居るのよ?」
「おや、それは光栄だね」
そんな会話をしながら歩いていると、私達に気付いた人たちが笑顔を向けて手を振ってくれる。それが嬉しくて私も、しっかりお姫様らしく手を振り返す。
暫くそうして歩いていると、どうやらお父様の用事がある場所に付いたようだった。私は初めて来たけれど、ありふれた雑貨店のようで、お父様はそこの店長と話があるようだった。
手持ち無沙汰の私は、お店に並んでいる興味を惹かれたものに、手が空いていたらしい店員さんの解説を付けて貰って回っていた。そうこうしていると、一時間も経たずにお父様が戻ってくる。
光の反射が綺麗なガラス細工の置物に食い付いていた私を見てお父様は苦笑すると、他の幾つかの雑貨と共にそのガラス細工をプレゼントしてくれた。
思いがけないプレゼントに浮き立つ気持ちを何とかお行儀よく納めながらも、プレゼントを大事に胸に抱えてお店を出る。お父様の用事もつつがなく終わったようで、店主に笑顔で会釈していた。
「さて、日が暮れる前には帰らないとね。どうだい、我が家のお姫様は今日の散歩を気に入ってくれたかな?」
「ええ、とっても。ありがとうございますって言葉だけでは足りないくらい」
「君の気が晴れたのなら、それが僕への一番のご褒美さ」
どこまでも素敵なお父様の笑顔に、私も笑みを返す。そうして帰路に着こうとした時。
「……おや?あれは───」
突然、お父様が滅多に見せない険しい表情を浮かべて遠くを睨む。釣られて同じ方向に視線を向けると、開けた通りの奥の方に人だかりが出来ているのが見えた。それと共に、嫌な雰囲気の喧騒も。
内心で首を傾げた時、嗅ぎなれない奇妙な匂いが風に乗って運ばれてくる。うっ、と咄嗟に顔を覆った私の隣で、同じ匂いを感じたのであろうお父様の表情が更に険しくなる。
「あれは……どうしたのでしょうか?」
「少し様子を見てこよう。君はここで……いや……」
言い淀んたお父様が、眉間を摘まんで苦いものを口に含んだような声を漏らす。そうして数秒思案した後に、私の手を取った。
「もしかしたら、『力』を借りることになるかもしれない。気をしっかり保って、付いてきてくれるかい?」
ただ事ではないお父様の雰囲気に吞まれそうになるも、『力』を借りるという言葉を聞いてはっとした。それは、紅血族の姫として生まれた者としての使命を意味する言葉。初めて果たすことになるかもしれない、私の責務だ。
「ええ、勿論です」
はっきりとそう言葉にした私を見て、お父様が頷いた。




