吸血鬼の女王
陽凪。
もう死んでしまった、かつての名前。二度と僕の元には帰ってこない、僕の名前。
僕が陽凪だと、鈴に名乗ることが出来たなら、どれだけ良かっただろう。けれど……それだけは出来ない。僕は、そこまで恥知らずにはなれない。
心のどこかで、鈴は、陽凪のことなんてもう忘れてしまっていて欲しいと願っていた。心の傷にはなっていたとしても、とっくに乗り越えて『次』に向かっていてるんだと。噓つきの僕にとって、そっちの方が都合がよかったから。
けれど、鈴は忘れてなんかいなかった。逃げたまま、終わらせようとなんてしていなかった……僕とは、正反対で。
真っ直ぐな鈴を前にすると、自分が卑怯者だと思い知らされる。人間であることに拘って、その為に全部忘れて、現実から逃げ続けて───そして遂に、逃げ道が無くなる。
虚勢も、仮面も、全て崩れ落ちる。あとに残ったのは、醜い吸血鬼だった。だから、
「ごめんなさい、鈴」
ぼたり、ぼたりと、僕の顔から、涙の代わりに眼球が零れて。バケモノを取り繕っていた醜い肉片が剥がれ落ち、その下から、皮肉なくらい綺麗な容貌が現れた。
「ひ、緋彩───」
鈴の手を、振りほどいて。
「陽凪は、もう死んだんだ」
掠れるような声で、そう言った。
痛いほどの沈黙が、お互いの間に流れていた。
僕はゆっくりと立ち上がると、一歩、二歩と後ろに下がる。この機に及んで、まだ逃げ出そうとするかのように。けれどその前に、僕の手を、鈴が強く掴んで捕らえた。
「……嘘よ」
「……鈴」
「だって、本当なら、私…………まだ、何も出来てない」
鈴の頬に、一筋の水滴が流れる。悲痛な声が、僕の心にもグサリと刺さった。
けれど、それに感傷的なナニカを抱くような権利は、僕にはない。かける言葉すら、一つだって持ち合わせてはいないのだ。ぐっと、奥歯の方に力が籠る。
「鈴。お願いだから、ここから逃げよう。もう、ここに残されてるものなんて何もない」
「嫌。嫌よ。緋彩の言葉でも、信じられない。陽凪は、あの子は……絶対に譲れない。ほんの少しだったとしても、救える可能性があるなら……認めたくないの」
「鈴……お願い……」
「ねえ、緋彩。私だけじゃなくて、この街を守って。図々しいお願いだとは思うけど、それでも、それでも、あの子、だけは」
鈴の手が、人の腕なら痣が残りそうな程の力で、僕の腕を握る。それでも僕の華奢な腕は、身動ぎひとつしなかった。
鈴を守りながら、この街を吸血鬼の襲撃から救う。確かに、僕の力があれば、もしかして可能なのかもしれない。けれど、鈴に譲れない点がある様に、僕にも譲れない点があった。
「鈴一人で、一緒に逃げてくれるなら、絶対に守ってあげられる。けど、そうじゃないなら……守り切れる確信がない」
「私はそれでも構わないわ!」
「駄目、絶対に。僕だって……譲れない」
鈴は、はっとしたように僕の顔を見た。今、僕はどんな顔をしているんだろうか。鈴の目を通じて見ようとして、やめる。もう、こんな上っ面だけのハリボテがどんな形をしていても、何の意味もない。
お互いに、譲れない部分をさらけ出して、ようやく覚悟が決まった。僕は、鈴を説得しなければならなくて……そのためには、鈴の心を折らなければならない。この、真っ直ぐな人の心を。
罪悪感も、責任感も、全てをかなぐり捨てる。この顔にもう意味が無かったとしても、それでもやりたくなかった、とある説得材料を……僕は、形にした。
「鈴、見て」
自分の顔を、空いていた方の手で掴んだ。すると粘土細工をこねるように、僕の顔が歪む。
目の前で起きた不気味な光景に、鈴の手が緩む。構わずに、僕はグロテスクな造形を続ける。そうして出来上がったものを見て、鈴は震える声で言った。
「…………陽凪」
「吸血鬼は、血を奪った相手の姿になれる。鈴なら、分かるでしょ?僕の言いたいこと」
鈴の手が、僕の腕から離れた。何もおかしく何てないのに、僕の口角が奇妙に歪む。
「陽凪は、僕が殺したんだ。だから、可能性なんてもうない」
ぎしりと歪んで、僕の顔が緋彩に戻る。けれど、あの変形を経た後に出来た表情なんて、もはや人とはかけ離れたナニカでしかない。それでも何とか、僕は精一杯の人らしさを表現して。
「けれど、僕の中に残った『陽凪』の記憶が、鈴を助けてあげてって、そう言うんだ」
「…………」
呆然としている鈴の前に、急かすわけでもなく、強引に掴み取るでもなく、ただ立ち上がれない人を助け起こす様に、手を差し出す。
「鈴、僕が守ってあげる。きっと、『陽凪』もそれを望んでる」
『陽凪』の複雑な心中も全て、そんな簡単な言葉で片付けて、僕はそう言った。
鈴は、僕の差し出した手に目を向けた後、ゆっくりと僕の顔を見上げる。鈴の瞳に、この夜の闇の中で、やけにくっきりと浮かび上がる『緋色』の灯が映った。
「緋彩……私、分からないわ」
「え?」
「貴女は、一体、何なの……?」
ずっと、僕を悩ませてきた疑問。鈴は、それを問うた。何度苦しんだだろう、どれだけ考えを巡らせても辿り着けなかったその答えを、僕はごく自然に口にした。
「僕は、アンセスター。全ての吸血鬼達の女王だよ」
この答えは、きっと伝えるべきじゃなかったんだと思う。
けれど、鈴にだけは誠実でありたい。そんなひとかけらの人らしさが、まだ僕には残っていた。
結局最後の最後まで、僕はバケモノになり切れなかった。だから、
「ごめんなさい、私───」
鈴は、拒絶を示す様に、明確に一歩だけ、僕から遠ざかった。
「貴女を信じられないわ」
「───ぁ」
その一歩が、致命的だった。
「あぶない!」
鈴の背後で、空間が歪む。僕はその現象を、一度目にしたことがあった。いや、何度も目にしたことがあった。
拒絶の言葉に怯んで、反応が遅れて。一歩遠ざかった距離が、無限に感じる程遠く。
空間の歪みから飛び出した血槍が、鈴の胸を貫いていた。
間に合わなかった一歩を、僕は呆然と踏みしめた。
ようやく触れられた鈴は、自分に何が起きたのか理解していないようで、僕に何かを言おうとしたけれど、口からは言葉の代わりに血液が溢れて。
鈴は、死んだ。
「は、は、ははははは!やった!やってやったぞ!」
空間の歪みから、遅れてヴィーラがせり出してくる。
「姫の身体を乗っ取る人間め!これが、これがお前の一番大切な人間だろう!壊してやった、はははははは!」
狂ったような笑いが、何処までも暗い夜の空に響き渡る。ひとしきりそうした後、ヴィーラはこちらを見てまた怒声を張り上げる。
「出て行け!姫の身体から出て行け!そこは、その人は、お前には到底ふさわしくないんだ!」
しんと、その言葉を区切りに空気が静まり返った。
ヴィーラは、ピクリとも動かなくなったこちらのことを観察しているようだった。望み通りの結果になったかどうか、見極めるために。そして、『私』は───
「あは、あはははははははは!」
可笑しくて、可笑しくて、とにかく笑っていた。
それを聞いたヴィーラが、びくりと肩を震わせる。それすらも可笑しくて、私は笑った。
何が可笑しいって、吸血鬼達が感情たっぷりに振舞っているのが何よりも可笑しくて仕方がなかった。そんな機能、着いていない癖に。ああ、それじゃあ、まるで
「ははは、はぁ……ねえヴィーラ、貴女って───まるで人間みたいね」
私は、目の前の彼女が望んでいるような綺麗な笑顔を見せてみる。けれどヴィーラはお望みの物を前にしても、何も言わず、ただ……怯えているようだった。
その反応に、私はふうと一息溜息を付いた。そして、右腕にどこからともなく緋色の血が集まり、一本の剣を作り出す。息をするようにそれを成した後、一歩、一歩とヴィーラに歩み寄る。
「え、あ、わ、わたしは、ひ、姫?」
「───はあ。ねえ、ごめんなさいね、ヴィーラ」
立ち尽くしたヴィーラと、息が触れ合うような距離にまで近づく。動けないままでいる彼女の前で、私は剣を持ち上げて。
「吸血鬼を生んでしまったことは、私の、取り返しのつかない過ちだったの」
鋭い刃が、『私』の細い首を切り裂いた。
緋色が、溢れる。
女王の身体から溢れ出した緋色は、留まるところを知らずに、みるみるうちに広がっていく。
ふと、その匂いを嗅ぎつけた吸血鬼達の動きが止まった。人狼達は崩れるように立ち消え、元の血液に戻っていった。
「姫が、呼んでいる」
皆、同時にそれを口にして、そうして匂いのする方へ……吸血鬼の姫の元へと、還っていく。
そうして、作られるべきでは無かった命たちは、血と記憶の連鎖は。
女王を中心として、一つの巨大なナニカに変わろうとしていた。
主人公視点で書いているつもりが、ラスボス視点のようになってしまいました。




