執着
少し諸々の自信を消失しかけておりまして……もしかしたら感想の返信が遅れるかもしれません。送っていただいた分は必ず目を通すつもりではありますが、少しお時間を下さい。
鈴の匂いを辿り、地獄のように燃え上がる街並みの上空を、ただひたすらに駆ける。
間に合わないかもしれないという焦燥感だけでもう限界に近かったのに、刀香と青崎所長との邂逅を経て、僕の感情はぐちゃぐちゃだった。心の中はずっと、答えの出ない疑問にずっと支配されている。
あの二人はこの後、どうなってしまうんだろう。僕は、刀香にとって結局、どんな存在だったんだろう。僕は、僕は、一体何なんだ。
「考えるな、考えるな、考えるな」
この疑問はきっと、僕のタイムリミットを短くしてしまう。まだ、まだソレを迎えるわけにはいかない。せめて、あと少し。鈴の安全を確保して、今日という地獄を乗り越えられるまでは。
もう少しだけ、僕は『緋彩』でいたい。いなければならない。それなのに───。
「ご、めん、なさい、刀香……僕は……」
僕は刀香に、確かに殺意を向けた。何が原因だとか、どちらが先に仕掛けたのかだとかは関係ない。僕にはきっと、色んな選択肢があったはずだ。ダメ元で結界をこじ開けようとしたり、時間は掛かれど、彼女を無力化しようとすることだって出来た。
なのに、僕は、今になってもたった一人を選ぼうとしている。その為に、その他全てを切り捨てようとしている。自分への言い訳に使えるようなモノも沢山あるからと、現実を直視することもせずに。
僕は、なんて卑怯なんだろう。バケモノにだけはなるまいと足掻いた末に、選んだ選択肢がこれだなんて、酷い末路だ。
視界が歪み、足が竦む。けれどもう僕の身体は、進むために、視界も、足も要らない。人らしい感覚が一つづつ剥がれ落ちていく中、身体だけは前へ、前へと進んでいく。そして───
「───鈴!」
見えた。吸血鬼が目前に迫り、倒れ込んでいる鈴の姿が。
空気を蹴り、限界を抉じ開けて加速する。そして吸血鬼の凶刃が鈴に届く寸前───僕の複碗が、吸血鬼を粉々に叩き潰した。
「なっ……!?」
鈴が、驚きの声を上げる。それもごぉぉぉぉぉん!という衝撃音に掻き消され、四散した肉片から血の雨が降った。無差別な紅が、僕を、鈴を染め上げていく。
血の雨は、降りやむまでにたっぷり数秒掛かった。その間、僕も、鈴も、身じろぎ一つしなかった。
鈴は多分、状況を理解できていなかったからだと思う。そして僕は……どう声を掛ければ良いのかが分からなかったから、黙りこくってしまった。
今の僕を見ても、誰だかなんて判別のつけようがない。それを抜きにしても、僕は吸血鬼だとバレたあと、鈴に何の説明も出来てない。かける言葉なんて、一つも出てこなかった。
それでも、ここは危険だ。ずっとこうして居られない。納得してもらえないにしても、鈴を何とか守れるような場所に移動させないといけない。
身体を引きずるようにして、僕は立ち上がる。そして僅かに届かない手を伸ばして、一歩だけ鈴に近寄ろうとした時───先に鈴の手が、僕の顔に伸びてきた。
「───!」
声も出せないままに驚愕する僕の視線と、鈴の視線が、真っ直ぐにぶつかった。頬に鈴の指が触れる感触がして、頬をなぞる様に上がっていき……辛うじて引っかかっていた、髪飾りに触れた。
今朝、鈴が付けてくれた、勇気の出るお守り。僕も、触れられてようやく、まだそれが残っていたことに気付いた。動揺する僕に、鈴が声を掛ける。
「……緋彩、なの?」
気付いてくれた、と嬉しく思った。気付かれた、と恐怖が溢れた。ぐちゃぐちゃに混ざり合う感情のままに、僕は鈴を抱き寄せた。
突然こんなことをしたら鈴を怯えさせてしまうかもしれないだとか、そんな思いも何処かに放り投げて、何処までも独善的に僕は鈴を抱きしめた。こんな姿になってもまだ僕に触れてくれたことを、錯覚にさせないように。
病的なまでの執着が、僕の心を焼き焦がしていく。そうして零れた言葉は、どこまでも直球な言葉だった。
「逃げよう、鈴」
「……え?」
帰ってきた疑問の音が、混乱から来たものなのか、僕の声が小さ過ぎてこの距離でも聞き取れなかったからなのかは、分からなかった。突き動かされるように、言葉をまくし立てる。
「二人で、ずっと遠くに逃げよう。僕は都市の外の事どころか、この都市のことすらよく分からないけど、とにかくこんな場所じゃなかったらどこでもいい」
「結界の外だから、吸血鬼と会っちゃうかもしれないけど、でも、僕なら絶対に鈴のことを守れるから。ご飯は……僕は要らないから、鈴の分だけ何とか見つけないと」
「ね、二人ならきっと寂しくないよ。僕、もう、鈴が死んじゃってるんじゃないかって、さっきまでずっと心配で……でも、もう大丈夫だから。僕、鈴さえ居てくれれば頑張れるよ」
「こ、こんな姿で、びっくりしたよね……?でも、本当に鈴のことを守りたいんだ。信じられないかもしれないけど、その、今は信じてってお願いするしかないけど、とにかく、今の状況で鈴を守れるのはきっと僕しか居ないから」
「あ、僕、気が回らないから、他に何か必要なことがあれば、遠慮せずに言ってくれていいんだよ?僕、鈴の為だったらなんだって出来るから。鈴のいうことなら、何も怖くないから」
「ずっと、ずっと、鈴と一緒に居たい。もう、ひとりぼっちは嫌。だから、お願い」
「僕と一緒に、ここから逃げよう?」
僕の願いは、破綻している。
願望だけで形作られた、言葉の数々。明日にまだこの人のカタチを保てているのかすら怪しいバケモノが、一体何を守れるんだろう。どうしてずっと一緒に居られるだなんて思うんだろう。
こんな願いを抱いてはダメだ。鈴のことを想うなら、僕はもう、鈴の傍に長くは居られない。でないと、きっと、僕が鈴を殺してしまう。
分かっているのに。それなのに、僕にこんな言葉を言わせるのは、『もうひとりぼっちは嫌』という、たった一つの願い。あるいは、我儘。
こんなことになってもまだ、僕は鈴に甘えていた。鈴ならきっと、「分かった」と言ってくれると思った。だから───
「───ごめんなさい、緋彩」
「……え」
なのになんで、鈴は謝っているのだろう。
怯えられるのなら分かる。信頼されなくて拒絶されるのも分かる。反対の立場だったらきっと、僕はこんな言葉信じられなかっただろうから。だけど───
「な、なんで、なんで謝るの」
「正直、あまり状況は呑み込めてないんだけれど……けれど、私の中で固まってる考えもあったわ。緋彩は吸血鬼で……でも、きっと悪い子じゃないって。一緒に過ごした時間が嘘だなんて、私も思ってない」
「なら、なんで……」
「私、まだ、この街でやり残したことがあるの。だからまだ、逃げるわけにはいかないわ」
「そ、そうは言っても……もう、ここはダメだよ!あの吸血鬼の群れを見たでしょ?あちこちで火が出てて、まるで地獄みたいで」
「それでも、なの。少しでもここが残る可能性があるなら、それに賭けたい。あの会社で続けていた研究も、私の生きる意味も全部、ここに残されてるままだから」
僕は、そこで初めて本当の意味で鈴の顔を見た。こんな地獄の中でも色褪せない、意思のある顔だった。
分からない。ただの人間なのに。さっきだって、あとほんの少し僕が遅れるだけで死んでしまっていたのに。それなのに鈴の心は、少しも挫ける気配が無かった。
「だから緋彩、貴女に私を守れるだけの力があるのだとしたら、それを私を守るためじゃなくて、この街を守るために使って欲しい……我儘で、ごめんなさい」
違う。先に我儘を言ったのは僕の方だ。けれど、それ以外にどうすればいいのか、どうしたいのか、僕には自分の考えすらもう分からなくて。
「分かんない、よ……どうして、鈴はそこまで」
絞り出したその言葉は。
「前に、私の人生でひとつ、大きく後悔していることがあるって言ったでしょう?」
僕にとって致命的な言葉を、鈴から導き出した。
「私はね、逃げ出してしまったままなの。彼───『陽凪』君を見捨てて」
記憶が蘇る。拒絶していた名前が形になる。そう、『陽凪』は、
あの病室で死んだ、僕の名前だ。




