織田信長の奇妙な思考形態
織田信長は、当時、戦国時代の大名の人心掌握術のセオリーの真逆の教育方針を取ろうとしていた。
しかし、それは、近臣にさえ、ずっと理解されておらず、
信長の死後はそうした方法論は消えて行ったようである。
戦国時代、主君から褒められることは武士の誉れである。
しかし、織田信長はあまり家臣を褒めない。
そのために朝倉攻めの陣で佐久間信盛が涙ながらにし
「これほど優れた家臣団はおりませんぞ」と訴えることにつながります。
しかし、織田信長は常に主君に依存するなと家臣に言い聞かせていました。
「人城を頼らば、城人を捨てん」
これは城のみならず、だれかに頼るな、また、だれかの評価を気にして行動するな。
誰かに褒められようとして行動するなということです。
また、それだけではなく
「恃むところにある者は、
恃むもののために滅びる。」
とも言って、再三にわたって家臣に言い聞かせています。
また自分の頭で考えて行動せよ、人に言われたことだけやるのは雑兵のやることだ。
とも言っています。
これは、本来の戦国武将のセオリーの真逆を行くものです。
武士は殿から褒められることを誉とし、殿から褒められ、認められるために
忠勤にはげみます。
佐久間信盛も、そうした当時の戦国時代の常識をそのまま言ったことであり、
当時の常識としては当然のことです。
主君は家臣を褒め、家臣は主君に依存することで謀判をふせぎ、忠義の臣を美徳とすることで
組織を維持するという方法論が日本の武士の組織形態です。
その形式現代に至るも踏襲されているものです。
しかし、信長は再三にわたって、それを否定しようとします。
織田信長が茶会を頻繁に開いたのも、わび茶を選んだのも、
そこに、人の平等をうたう思想があったからです。
これは驚くべきものです。
茶室に入る時、入口をわざと小さくすることによって、
どんな高位の者でも頭をさげなければならない。
人の上に人を作らない。
そうした村田宗珠の思想に信長は共感したのです。
ちなみに、わび茶の様式を作ったのは千利休ではありません。
村田宗珠です。
自分の考えを持ち、自分の頭で考え、
誰かに依存しない。
人から褒められることを期待しない。
人目を気にしない。
そういう生き方を奨励しました。
織田信長がわざと女物の着物を着ておどったり、
奇抜な恰好をしたのも、人目を気にするなという教えを啓蒙したかったからのようです。
そういう姿勢がある意味、誤解されて、信長は厳しい、人を褒めない、冷徹だという
イメージを持たれてしまった部分があります。
しかし、信長は、人を褒めないかわりに、人によく感謝します。
信長文書の研究上巻の最初のほうに載っている文献でも
信長は竹20本をもらったことに対して、丁寧に感謝の書状を送っています。
信長は、よく人に感謝してお礼を言いました。
人を上から目線で褒めるのではなく、
同等の目線から感謝する。
それが信長の姿勢でした。
浅井朝倉に包囲されて朽木領に逃げ込んだとき、自分は何も持っていないが、
せめてといって、鹿の皮の履物をお礼を言って、先導してくれた者に渡しています。
このように、信長は人を褒めないかわりに、非常に頻繁に感謝しました。
その姿勢を理解していなかったから、佐久間信盛の朝倉攻めでの言動に信長は激怒したのです。
しかし、佐久間信盛の発想は、いわば、当時の人心掌握のセオリーであり、
教科書どおりの方法論でした。
だから、当時のセオリーを無視した信長の行動に、保護者的な気分の佐久間信盛は
強い危惧を感じていたのでしょう。
信長は、熱心に自分の方法論を説きましたが、身近な者にもよく理解されていなかった
様子がうかがわれます。
信長の死後、人心掌握のセオリーは元の戦国時代のやり方に戻ってしまい、
江戸時代でも、殿様に褒められることを誉とし、家臣は殿様に褒められるために命さえ捨てるという
行為が、常識化され、現在にまで踏襲されることとなります。
信長の考えは、
上司に頼らず、自分の上役、殿の評価など気にしてはならないし、それに依存してはならなない。
どう行動するかは自分の頭で考え、自分が決断する。
誰かの目を気にして行動してはならない。
上の立場の者は、下の者を褒めてはならない。
常に対等の立場を保ち、感謝する姿勢を取らねばならない。
というものです。
これは、大名と家臣の共依存関係を破壊するもので、
家臣の謀反を誘発する可能性がある危険なやり方です。
事実、信長の真意は理解されず、信長は再三にわたって謀反を起こされ、そのつど許しています。
そういう現状を見て、
佐久間信盛は涙ながらに、信長に「家臣を褒めろ」「褒めて依存させろ」という事を訴えていたように思います。
それは、本当に信長の事が好きだったのだなという状況がうかがえ、信長の真意が理解されない
苦悩も併せてみてとれます。




