織田信長大爆笑
織田信長が大爆笑した話
織田信長は笑うことが好きで、
よく百姓も武士も分け隔てなく遊び、肩を組んでゲラゲラ笑っていました。
また、自身も駄洒落を言うのが好きでした。
よく知られているのは信長公記に書かれている
桶狭間の合戦で加藤順盛が熱田で出迎えたのを見て
「加藤が来たからきっと勝とう!」
と言ったこと。
あと、馬の上でうたた寝をしていた時、
ふと目を覚まして何処かと聞き、
「東福寺」と聞くと
「ああ、豆腐食う寺」
と駄洒落を言った。
実際には「ああ、こは白壁かや」と言ったと言われています。
白壁とは当時の俗語で豆腐の事です。
あとは近江でうどんをごちそうになった時に
「負ける奴は運が鈍なのだ」
と言った。
など数々のギャグをかましています。
そして、織田信長が大爆笑したネタというのが、
安土城で織田信長所有の宝物と家臣の俸禄の価値を
ランキングにしてならべる遊び。
祐筆の楠正虎に命じて並べさせたところ、
宝物と家臣の名前が交互に並んで
『扇筒井順慶』『小袖十村田吉五』『馬正林坊』
というように家臣と物品が合体したみたいな名前になったのを見て、
織田信長は大爆笑した。
今の人の感覚ではいまいちわからないが。
それで、たいそう喜んだ織田信長は、その宝物を、たまたま名前が並んでドッキングした
家臣にすべて分け与えたそうである。
織田信長が有る時。安土城の御物預かりの者を召して、
「(信長の御物である)武具小袖、錦糸扇子等を、価値の高い順に千種広間に並べ置くように。
楠(信長の右筆である楠木正虎か)は給人帳(信長が禄を与えた者を記録したもの)を持ってくるように」
と命じた。
翌日、「その事調い候」と申し上げると、信長は給人帳の上下を切って、真ん中の紙に
千種広間に置かれた御物を書かせた。それが終ると三つに別れた給人帳を再び元に戻し
これを開くと、そこには
『扇筒井順慶』『小袖十村田吉五』『馬正林坊』
という具合に、御物と給人の名前が並んだ状態になっていた。
これを見た信長は「こんな高下(ランク付け?)になったか!」と、お腹も背中も切れてしまうかと思うほど
大爆笑し、あまりに笑いすぎて呼吸が苦しくなり倒れて転がる有様であった。
(斯様に高下ある事よとて、腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり)
万座も一入興に入り、笑いを含んだという。
(甫庵信長記)
あと、下品な話の逸話では、
織田と武田が友好関係を結び、武田の使者が織田信長に謁見した時、
信長の家臣がふざけて、
武田の使者の頭に自分のチンコを乗せて「ちょんまげ!」ってやったのが、
ツボにはまって、織田信長が笑い転げたという逸話も残っている。
美濃の軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を池田恒興と佐々成政が二人で
討ち果たしたが、首実検の時、お互い謙遜して、相手が打ち果たしたのだと言って
譲らない。
その謙遜があまりに続いたので、あざといと思ったのか信長の機嫌がどんどん悪くなっていった。
その様子を見た僧侶の島蔵主が
「このお二人の言っていることはどちらも本当の事です」
と信長に申し出た。
「では誰が首を取ったのか」
と信長が問うと、
島蔵主は
「瓜でも熟れれば勝手に落ちます。よってこの年寄も勝手に首が落ちたのでしょう」と
言ったので、織田信長が大爆笑して、その場、だれも処罰されることはなかった。
(近古武事談)
織田信長は甘いものが好きで、京都ではよく団子を買い求めていたらしい。
そのため、小姓たちが陰で信長の事を上様団子と呼んでいたのと、
とある小姓がうっかり本人の前で言ってしまったので、
信長は不機嫌になったが、
曲直瀬道三が
「昔、天子様がよくチマキをご所望なされ、京童どもがありがたがって、
内裏粽と申したそうです。この者も、それに倣ったのでしょう。天子様に比類されたのです」
と言ったので信長の機嫌がなおり小姓も罰せられることはなかったという
逸話がある。
信長は京都の新参の小姓に上様団子と陰で言われていて、
それを知って切れそうになったことがある。
しかし、「おとなげない」とやんわり坊主に言われて許したことがある。




