中古思想の織田信長
織田信長は土木に注力した。
徳川幕府は普請を中心とし、
特に道路土木には消極的であった。
織田信長は、自分の住む場所にはほとんど頓着せず、
中古物件を転用することが多かった。
最初は那古野城から清州城に移り、そのあと、本当は犬山城に移ろうとしましたが、
家臣たちの反対によって小牧に城を作りました。
小説などでは、最初から小牧に城を作る予定にしていたが、わざと遠い犬山を指定して、
譲歩したふりをした、などという話になっていますが、
実際には本当に犬山に拠点を移すつもりだったと思います。
何故なら、織田信長が移動した場所は小牧以外だといずれも物流拠点だったからです。
清州も水運の物流拠点ですし、犬山も長良川の物流拠点。
岐阜城も近隣に川が流れる物流拠点。安土もそうです。そして、
そのあと、移転しようとしていた石山本願寺もそうでした。
小牧には新築の城を建てましたが、石垣の建設は防衛上壮大でしたが、城自体は
小規模なものです。
岐阜では、岐阜城のふもとに日頃自分が生活する館を建設しましたが、
それも、持っている石高からしたら極めて質素なものでした。
信長の建築に関する思考は、安土城をもって、贅沢思考に思われがちですが、
安土城はあくまでも迎賓館であり、ルイスフロイスが「信長が自分を神としてあがめさせるために作った最上階」と言っているものは、実際には天皇をお招きするための玉座で、そこに、
最高級の盆山を飾っており、この場所を神の御座として大切にするようにと
信長は部下に命じていたのです。
盆山とは盆栽の石バージョンで徳川家康や伊達政宗ももっていた装飾品であって、
決して自分を神の化身と思った証拠などではありません。
二条御所は足利義昭に献上したもの、二条新御所は皇太子に献上したものです。
京に在住するときも、信長は質素な本能寺などの寺院に宿泊していました。
となれば、信長は出資を緊縮していたかといえばそうではなく、
節約した金で、柳街道など街道整備に莫大な資金を投入しています。
この道路整備の土木と建築は同じようなものに思われがちですが、実は、
根本的に違うものです。
どちらかといえば、建築土木にかかわる尾張の神社関係者としては、津島が
土木、建築は熱田がより精通していたようです。
このため、土木ばかりに力を入れる信長に対して、熱田の不満が募ります。
その結果、熱田加藤家が織田信長の弟の織田信勝に武器を融通した書状なども残っています。
こうした信長の土木重視の方向性が、若い頃常に行動を共にしていた加藤弥三郎ら熱田衆の
不満につながっていきます。
そして、ついに、土木方の坂井一族の重鎮、赤川景弘を加藤弥三郎、佐脇籐八、長谷川橋介、山口飛騨守などが襲撃する事件につながります。
このあたりの土木と建築の違いが判らなければ、なぜ、同じ土木建築関係の赤川景弘に対して
加藤弥三郎が遺恨を持ったかは、分かりにくいと思います。
この織田信長の傾向に対して、
建築である普請方に力を入れたのが徳川幕府です。
徳川は、懸命に織田信長が敷いた政策を否定しようとしますが、
多くが失敗に終わります。
徳川吉宗の緊縮政策も実際は失敗しており、
前期は徳川宗春の消費政策、後期は息子の徳川家重による消費政策によって支えられています。
実際に成功したのはこの徳川宗春と徳川家重です。
しかし、その徳川政権がこれだけ長期間政権を維持できたのは、
皮肉にも豊臣秀吉から嫌がらせで領地替えになった湿地帯の江戸に原因があります。
江戸は、嫌でも排水土木工事をして、水を他に流さないと、すぐに水浸しになる
脆弱な場所だったので、江戸時代を通して、利根川の大工事をして水を江戸から迂回させる
必要性があった。
その莫大な土木工事が景気を刺激し、江戸幕府の財政状況を支えたのです。
しかし、現在では、そうした実質的な経済構造を見ず、ただ徳川幕府のポリシーである
質素倹約が美徳であるかのように現在では思い込まれていますが、
これは間違いです。
それでは、徳川幕府を作った徳川家康は偶然の産物によって政権を維持していた
凡庸な人物かといえばそうではなく、
彼は、戦国時代の従来の経済活性化のモデルケースを踏襲し、景気浮揚策を行っています。
それが、参勤交代です。
参勤交代はただの移動ではなく、実際には使用しない鉄砲や武器、弾薬、刀剣、弓矢も
一緒に運ばなければなりません。
大名行列する大名はその財政状況によりその軍装の規模もさだめられています。
これは、戦国時代、景気浮揚策として戦争が活用されていたことに起因します。
この戦国時代の常識にしたがって、武田信虎は盛んに戦争を行っていたのですが、
彼の統治時代、小氷河期になり、コメの収穫量が激減し、食料需給においてインフレが
発生していました。その状況で、より物資が消耗する合戦を乱発したため、
武田家は酷いインフレに見舞われ、武田信虎の信認は失墜します。
これを横で見ていたのが今川義元であり、
この武田信虎の失敗から学び、緊縮財政を行います。
しかし、穀倉地帯の尾張などから大量の米を輸入した駿河は米余りのデフレ状況になり、
国が衰退します。その状況を改善するために今川義元は桶狭間の合戦を始めることになります。
そうした状況下を若年時代見ていた徳川家康は、合戦が景気浮揚策になることを学んでいました。
また、徳川家康以上に、今川政権下で経済を学んだ徳川譜代の家臣は、
より純粋培養で今川方の経済構造を学んでいました。
よって、幼年時代を今川で過ごし教育を受けた徳川譜代の家臣が政権の中枢につく秀忠時代に
緊縮財政と景気刺激策の両立を模索し、それが参勤交代という形で完成するのが家光の時代です。
徳川家光の時代、参勤交代と緊縮奨励の思想が徳川幕府の官僚機構に踏襲されていくことになります。
徳川家綱などの例外はありますが、徳川幕府は基本、緊縮を目指した政策をしました。
それは経済を衰退させる方針でしたが、
江戸から水を排出するための莫大な土木工事の支出と参勤交代によって
救われ、長期間にわたって政権を維持することとなります。
徳川幕府は今川から教わった緊縮財政の思想に取りつかれ、
緊縮を美学としたが、
実際は、江戸庶民の浪費文化や、彼らエリートが不愉快な支出と考えていた江戸からの排水工事、
参勤交代によって、救われていた。
江戸からの排水工事が完成し、江戸のエリート官僚たちが理想とする政治を実現できる状況になった時、
徳川幕府の崩壊が始まった。




