織田信長最新の研究によれば
織田信長が土木建築を積極的にやったのは、神道的精神に由来する。
よく、「これが真の信長像だ!」みたいな本が出ているけど、
そこで「最新の研究によれば」
という書き方がされている。
しかし、最近言われている織田信長中央突破説の元ネタは
信長の戦国軍事学 1997/12
藤本 正行 (著)
であり、二十年以上前に発表された書籍による。
長篠で三段撃ちが無かったといわれている事も、
長篠で軍全体による一斉射撃をすることは不可能でる。
ということを証明しただけで、
三段撃ちが無かった証明にはなっていない。
一斉射撃も部隊ごとにやっていた可能性はある。
本当の最新の研究成果としては
龍野神社から出てきた脇坂家文書に
豊臣秀吉が「織田信長は部下に優しすぎたのが欠点だった」
と書いてあることが分かったことくらいだ。
しかし、研究結果は世間的にまだ全然浸透していない。
たぶん、あと20年くらいかかるんだろう。
だいたい、織田信長軍が比叡山で虐殺をした証拠というのは
明智光秀が比叡山宗徒を皆殺しにするよう命令を出した
和田家文書であるにもかかわらず、
その元ネタも知らず、小説では、明智光秀が必死に織田信長に
比叡山焼き討ちを止める描写が大量に出てくる始末だ。
むしろ、明智光秀はもっとも積極的というか、比叡山焼き討ちにおいて
宗徒皆殺しを指令した張本人である。
このように、現場で分かった調査結果と一般に啓蒙される内容との
タイムラグが非常に大きいのが歴史研究の分野である。
私がここで書いていることも
最新の研究とかではなく、歴史分野では普通に当たり前に言われていることが多い。
犯土や人柱なども郷土史の分野では当たり前に語られているが、
一般書籍の出版になると出版社がストップをかけるので
学術論文の分野でしか話は出てこない。
織田信長が戦国武将の中で最も積極的に道路建設をやって、
しかも規格をさだめて道路を作ったことも、世間的には
ほとんど知られていないが、歴史学会では常識となっている。
元々、日本の神道の根幹には土木建築がある。
日本は世界希に見る災害大国であり、
その災害の復旧に神社の神人がかかわった。
石積みの穴太衆も日吉神社の神人である。
東日本大震災で津波で神社がある場所だけに津波が押し寄せず、
神社だけが津波被害を受けなかったことが統計データで明らかになった。
これは偶然ではなく神社に土木技術の粋が集められていて、
いざ、津波が起こったら、村人が神社に逃げ込むようになっていたからだ。
だから、日本の神道は神教ではなく神道なのだ。
神の道である。
この神の道は、古代、古墳であった。
古墳は王様の偉業をたたえるためにあるのではなく、統治者が民衆に仕事を与えるため、
王の墳墓を作る公共事業であったことがわかっている。
これは、エジプトのファラオのピラミッドが、奴隷により強制的に作られたものではなく、
公共事業として人々に仕事を与えるために行われていたことが、
古文書の分析などから明らかになってきたことから、
考古学会で古代遺跡に対する考え方が変わってきたからだ。
そこから古墳が作られなくなったのは、
古墳にかわって、より利便性の高い道が作られるようになったからだ。
伊勢神宮にお参りするための参道、その建設から東海道へ。
道は古来、神道と深いかかわりをもってきた。
そして、道を作るということは、道をつなげ、長くのばしていくこと。
つまり、技術を蓄積して、そこに、新しい実用的な技術を継ぎ足していく。
情報の蓄積と新しい情報の入手、取捨選択、蓄積、このフィードバックこそ、
神道の極意であった。
織田信長はこの神道の考え方に強く影響され、土木事業を積極的にやった。
この土木事業を早急に大量にやることの足かせが、
人柱であった。
よって、織田信長は現代人が考える、人道的配慮から人柱をやめて
石仏を道や城、堤に埋めたのではなく、より効率的に、大量に道を作り、堤を作ることを
可能にするために、人柱の調達という従来の常識を破棄したのだ。
神道は神の道を作ること、
その精神は古墳建設から連綿とつながる、民への富の還元の精神に基づいている。




