尾張の弱兵と言われるわけ
織田信長は戦場のロマンよりも合理的戦い方をした。
織田信長は戦争が嫌いです。
信長公記に村木砦の戦いで、織田信長が死んだ家臣のために涙を流したという
記述がありますが、
これを、「織田信長を美化するためのねつ造だ」
という人がいますが、
信長公記は織田信長が死んだあとに豊臣秀吉や池田家を礼賛するために
太田牛一が書いた要素が大きいです。
また、現代人の感覚では部下のために泣く行為は美談に見えますが、
戦国時代の感覚では男が泣くという行為は「女々しい」と言って軽蔑される行為です。
もし、織田信長を礼賛するために信長公記が書かれたのであれば、
織田信長が若い頃「うつけ」と言われて笑いものにされていたという記述は書かないでしょう。
織田信長は村木砦で死んだ部下のために泣き、岩室長門守が死んだとき、大いに泣きました。
そして、戦争が嫌いです。
戦国時代、合戦にロマンを抱き、美化した時代です。
能力主義の時代であり、日頃磨いた武芸を戦場で発揮するのが誇りであり、
織田信長の勢力が肥大化するまでは一騎打ちも尊ばれました。
しかし、信長は家臣の能力よりも誠実さを求めましたし、戦争も嫌いでしたので、
本来であれば禁じ手である戦法も平気で使いました。
本来は、強い武将同士は一騎打ちで決着をつけるべきであり、
戦国時代のドラマなどでも「よき敵を見つけたり!」とか言って一騎打ちしてたりします。
しかし、織田信長は強い敵に対しては三人がかりで倒すよう指導していました。
これは、武芸に優れた敵の武将を倒した記録に度々出てきます。
今川義元も塚原卜伝に武芸を学んだ強者であり、
織田方から三人がかりで殺されています。
こういう事をするものですから、敵から嫌悪され「尾張の弱兵」と罵られることになります。
ルール違反ということでは、
織田軍は当時タブーであった槍を投げる行為、犬槍を使いました。
織田家の中で体が小さく、津島小法師と呼ばれた平野甚右衛門は、体が小さいがために
敵より長い槍が使えず、このため、敵に対して度々槍を投げた。
しかし、一度槍を投げてしまうと、武器が無くなるため、
大量の小刀を戦場にもっていくようにして、その小刀を敵に投げるようにしました。
これが、忍者衆に広がり、手裏剣につながったとされています。
当初、大量の小刀を調達するのは高価であるため、
馬の脚がうっ血した時、馬の脚の関節を刺してうっ血を出すための刃物、
馬針が手裏剣として使われました。
その形状が、後の手裏剣の形に継承されます。
忍者映画でよく卍型の手裏剣が出てきますが、
これは戦国時代に使われていません。
卍型の手裏剣は昭和のテレビドラマ、大江戸捜査網などで、
使う手裏剣が実際に人に当たって怪我をしたら危ないので、
人に刺さりにくい安全な卍型にしたと言われています。
戦国時代に使われたものはいわゆる
クナイと呼ばれる棒状のものが多かったようです。
強敵を倒すときは三人がかりで、
のちは、鉄砲で射撃。
織田信長にとって戦争は勝てばいいのであって、
戦場にロマンをもっていなかった。




