織田信長が優しい人間であったことが確定した文書
脇坂家文書の発見により当時の人たちが織田信長を
「優しい人だ」と考えていたことが確定した。
今までの既存の文書でも織田信長が優しい人間であったことは、
すでに証明されています。
木下藤吉郎の妻、ねねに対する優しい気づかい、
山中の猿といわれていた障碍者を無償で助けた事実。
自ら天人に扮して芝居を行い、見物に来た老人や子供たちに
お茶をふるまった事。
それでも、それらの事実が提示されるたびに
「そんなものは権力者が圧力をかけてねつ造したもんだ」
と主張する人が現れる。
実際は、信長公記が成立したのは織田信長の死後であり、
内容的には作者の太田牛一が世話になった丹羽長秀やと支配者である豊臣秀吉に
都合が悪い記述は出てきません。
事実、秀吉に仕え、秀吉の四天王と当時呼ばれた人たちは、
宮田光次
神子田正治
尾藤知宣
戸田勝隆
の4人です。
秀吉が三顧の礼をもって迎えたのは、おそらく神子田正治であり、
竹中半兵衛は安藤伊賀守と一緒に信長に帰属した信長の家臣で、
秀吉に対しては、むしろ、監視役であった与力です。
秀吉が長良川流域で交渉して仲間に引き入れたのは
蜂須賀小六ではなく
坪内利定です。
蜂須賀小六は名門の出でインテリです。
小説で語られる蜂須賀小六のイメージは元々坪内利定のものです。
しかし、神子田正治やのちに秀吉に処刑されてしまい、
坪内利定も仲違いしてしまって秀吉の元をはなれたので、
黙殺されてしまった。
実際の歴史は物語の中の歴史とは大きく違うのです。
途中で没落した人、死んでしまった人、小説のストーリーで後味が悪いものは
排除されてしまいます。
それで、当時の古文書、書簡を読んでいれば、織田信長が優しい人物であることは
確定的なのですが、
近年になって、当時の人が「織田信長は優しすぎる」
という事を語った文書が見つかりました。
それは竜野神社から発見された脇坂家文書です。
脇坂安治に豊臣秀吉があてた三十三通の文書で、
村井祐樹・東京大史料編纂所助教が解読にあたりました。
この文書の中で、秀吉は「信長は優しすぎるのがダメだった。自分は信長のように甘くないぞ」
と脇坂安治に手紙を送っているのです。
信長をほめる内容ではなく、むしろ否定的な意味で、信長を「優しい」と言っている。
小説の中などでも秀吉は豪放磊落であり、常に笑っており、
部下に優しいイメージがありますが、
あれは、実は信長の模倣だったのです。
秀吉は、信長存命中は、常に信長の模倣をしている。
その一旦は、三木合戦の時にも表れています。
織田方に味方した三木の別所氏が自分たちの過去の自慢ばかりしていたのを
相手にせず「過去の自慢話に固執していても意味がない」という態度を取ったのも
信長が、常に過去の成功にすがりつくことなく、未来を向いて思考、行動せよ。という
理念によって動いていたからであって、純粋培養で信長の元で育った秀吉はこれの模倣をしたのです。
しかし、本来日本も「過去の自慢をして自己主張をする」という文化が根付いており、
三木合戦でも別所側についた神吉頼定が城の城壁の上から日の丸の扇をかざし、
織田方にむかってとうとうと先祖の戦歴を自慢する場面が記録に残っています。
その秀吉が年をとってから部下に冷酷になっていくのを今までの考えでは
「もうろくしたから」と考えられていましたが、
これら新しく出てきた文書によると
秀吉は「信長の欠点は家臣や領民に優しすぎたから」だと考えるようになっていたことが
うかがえます。
よって、自分は同じ失敗を繰り返さないように、あえて、家臣に厳しくしたのだと思われます。
現代人の視点からみてどうかは判断が分かれるところですが、
当時の人は織田信長が「優しい人」であったと考えたいたことは、
この文章によって確定しています。
しかし、それは、むしろ欠点ととらえられていたようです。
ですから、織田信長の優しい行動は「権力者織田信長をよく見せるためにつくられたねつ造だ」
という考えは成立しません。
織田信長の優しい行動というのは木下藤吉郎の妻に信長が送った文章など、
当時の一次資料がほとんど。
人に見せる目的で作られた文書や軍記ではなく個人の蔵や神社に所蔵されていた
文書が根拠となっているので、事実である可能性が極めて高い。




