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八話 正義、巡回中にて



 シェアハウスを一人飛び出したレシアは、夜の街をひたすらに走っていた。

 やがて、街灯の下で蹲り、嗚咽を漏らす。


「オルトのバカっ……大バカオルトっ! オルトなんて嫌い……!」


 覚悟を決めた乙女に、まさかあんな態度を取るとは……。レシアはあまりのショックに我を忘れていた。ただただ、悲しかった。

 オルトが今まで手を出さなかったのは、自分に魅力がなかったからだと思い知らされた。本当は自分のことなど、とうの昔に飽きていたのだと思い知った。

 レシアの中で、哀しみと怒りが大きくなっていく。

 何よりも……何よりも一番、腹が立つのは自分だ。


「…………私はオルトを信じたいのに」


 信じ切れない自分が、途方もなく嫌いだ。

 レシアは膝を抱え、空を仰ぐ。

 あれだけ大喧嘩をしたのだ。まさか帰れるわけがない。顔を合わせることなどできない。


「はあ……これからどうしよう……」

「おや……お困りかな。お嬢さん」

「……え?」


 まさかポツリとした呟きに、誰かが反応するとは思わず、レシアはハッとなって視線を下げた。

 レシアの視界には、街灯に照らされた怪しい人物が写った。目深く被ったフードと、体全体を覆うマント。体格も顔も全く分からない。

 疑心。それが表情に現れていたのか、怪しい人物は苦笑した。


「ははっ。いや、怪しい者では……ない。我はちょっとした旅人だ」

「こんな時間になにを……?」

「それはお互い様ではないかな?」


 レシアはその通りだと口を噤んだ。


「いや、それにしても美しいお嬢さんだ……本当に……」

「……えっと」


 なんと言っていいか分からず、レシアは戸惑う。ただ、少しだけ気味の悪さを感じる。どことなく、レシアの直感が、目の前の人物を警戒している。危険だと言っている。


「ああ……ああ……美しい。見れば見るほど、なんと美しいことか」

「あの……」


 その時――一匹の蝿が、マントの中から出てきた。

 もしも、何も警戒もしていない状態で見たなら、注目すらしないであろう――取るに足らないことだ。

 だが、感覚が研ぎ澄まされたレシアは――僅かながら、邪悪な気配を感じ取った。

 咄嗟に、その場から飛び退き、身構える。体に桃色のオーラを纏い、ブリュンヒルデを顕現させた。


「あなた……! 人間では……ありませんね……?」

「…………そうか。噂の神器使いか。まさかこれだけ美しいとは驚いた」


 言いながらフードを外す。すると、フードの下に……顔はなかった。現れたのは、無数の蟲達の集合体。ぐちゃぐちゃと音を立てて蠢く、蟲の化身だった。


「我は蝿の王。深淵大地を作りし、ブラックに用があったのだが……予定変更だ。我は、そなたを妻に娶る」

「は、蝿の王……? 妻とはまたなんの冗談ですか……!」

「冗談ではないとも。一目惚れだ。そなたは美しい……それに神器使いとは運が良い。我の子らを産むには、相当な体力が必要だ。その点、神器使いなら心配ない」

「――ッ!」


 蝿の王がマントの下で動き出す。その瞬間、レシアが先手を取ってブリュンヒルデを突き出す。

 槍先は蝿の王の体を易々と貫く――手応えがない。


「くっ……!」


 反射的にレシアは槍を引き、バックステップする。

 これに蝿の王が感心する。


「素晴らしい判断だ。美しいだけではない。戦い慣れている。ますます、好きになった」

「それは嬉しくありませんね」


 言いながら、レシアの頬に汗雫が流れる。

 槍が貫通し、マントにできた穴から蟲が湧き出ている。目の前に立つ魔人を構成しているのは、間違いなく蟲だ。

 原理は分からない。しかし、あの体には魔法使いの『エレメンタルアスペクト』と似た性質があるのだろう。恐らく、物理攻撃は通用しない。

 分からないのは、レシアの攻撃――つまり、神器が通用しない点だった。オルトのように特殊な手段がなくとも、神器使いのレシアは『エレメンタルアスペクト』を無効化できる。そのレシアが、ダメージを与えられていない。


「はは。そんなに驚くことはない。そなたは強い。並みの魔人よりも。ただ、我には遠く及ばなかったというだけのこと。見たところ……そなたの力が弱まっているのが原因の一つみたいだがね」

「なっ……」


 言われて初めて、レシアは自身の不調に気がついた。

 その通りだ。神器から送られる力が、いつもより少ない。出力が落ちているのだ。

 そんなバカなとレシアは困惑するが、すぐに理由に思い至った。

 愛憎の槍ブリュンヒルデ。その効果は、愛する者に対する愛の大きさだけ所持者の力を増幅させ、愛する者に対して特攻効果を持つというもの。その力が弱まっているということは――。


「…………あ、あの喧嘩が原因なの……?」


 レシアは冷水をぶっかけられた表情で俯く。


「……察するに、なにか悲しいことがあったのだろう。我が話を聞いてやろう」

「ま、魔族に同情されるなんて……ば、バカにしないで下さい! それよりも、一体何者ですか!」

「これは失敬。我は……『死翔の魔将』蝿の王」

「ま、しょう……?」


 聞き慣れない単語に、レシアは首を傾げる。


「魔将とは、魔人をも凌駕する存在だと思ってくれればいい。それよりも……どうだろう。これからもっとお互いのことを知るために、我が城まで」

「お、お断りします!」

「そうか……それは残念だ。できれば、同意の上で行きたかったのだがね」


 瞬間。蝿の王の体からゾワゾワと身の毛がよだつプレッシャーが放たれる。レシアの体が緊張で強張る。今まで、これほどのプレッシャーを感じたことがあっただろうか。いや、ない。


「くっ……!?」

「ほう。我のプレッシャーを受けて、まだ戦う意志があるか。さすがは、神器使い。強固な精神だ。実に天晴れだ。しかし、実力は伴っていないな」


 蝿の王がそう述べた直後、チクリとレシアの首筋に何かが刺された。


「なっ…………」


 蝿の王のプレッシャーに呑まれ、蟲が一匹……レシアの首筋に取り付いたのに気がつけなかったのだ。

 レシアは膝から崩れ落ち、地面に倒れ伏す。体が動かせない。


「な……にを……」

「ああ、安心するといい。麗しい花嫁よ。単なる麻痺毒だ。死ぬことはない。ああ、花嫁よ。ああ、我が花嫁よ。早速、帰ろうではいか」

「……いやっ」


 蝿の王はレシアを抱き上げる。拒絶するレシアだが、体は動かない。そのまま、蝿の王に連れ去られるかに思えたが――。


「夜の巡回中に、なにをやっているのだ? そこの魔人よ」

「っ!!」


 レシアは聞こえた声の方向に、僅かに動く視線を動かす。視線の先には、眉根を寄せたラッセルが立っていた。


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やる気……出ます!

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