第八話 皇位継承順位×疑惑の眼差し
帝国城に仕える官僚、女官、宦官達や下働きの者に至るまでの全員が、一度はこう思った事がある。
【清滝宮】なんて如何にも清らかな水流を思わせる名の離宮に暮らしてはいるけれど――泥濘のように濁って淀んで、ここまで性根が腐っている者もかえって珍しいだろう、と。
【清滝宮】の女主人であるアーリヤカ皇太后は、弟にしてニテロド一族の長でもあるアーゼルトと密かに話し合っていた。
二人の周囲には神妙な顔をした女官や宦官達が控えている。
無論、彼らもニテロド一族の縁者か息のかかった者ばかりだ。
この密談の内容を噂話として流布するような愚か者がこの場にいては、とても困るのである。
ケバケバしい化粧をしても隠せない、歪んだ性格がそのまま表れている顔を更に歪めて、彼女は呟いた。
「まだ生まれぬのか、ヴァンドリックの子は。幾ら何でも……長すぎるぞえ?」
皇太子ヴァンドリックの妃の一人に、キアラカと言う女がいる。
彼らからすれば臭くて卑しくて堪らぬ平民の出でありながら皇太子からの寵愛を受け、子も授かったそうだ。
――しかし、それっきり。
生まれたと言う話を一向に聞かないのである。
キアラカが子を授かったと言う話を聞いてから、もう一年は過ぎている。
幾ら何でも、赤ん坊が生まれていないと言う事はあり得ないだろう。
薄くアーゼルトは嗤いを浮かべるなり、
「姉上よ、もしかすればこれは我らにとっての好機やも知れませんぞ」
身を乗り出して、そうやって姉に囁いた。
「流れたのを……まだ隠していると?しかし――」
それならば、『子が流れた』と言う噂が皆無なのがとても気になる。
「いやいや、他に考えられませんでしょう。散々に姉上が苦労なさって流そうとした、その労苦がようやく報われたのでしょうぞ」
「ふむ……」
まだ何処か納得が出来ていなさそうなアーリヤカに、アーゼルトは冷酷に微笑んで、
「ああ、これで私も大枚をはたいてありとあらゆる『薬』を手に入れて、効き目を確かめようとした甲斐があったと言うもの。
幾ら美女とは言え、所詮は下民。我々高貴なる者の義務を背負う力が無かっただけの事ですよ」
――そこにアルドリックが足音も荒く入ってきた。
「母上!母上、聞いてくれ母上!」
アルドリックは入ってくるなり、叔父がいるのにも構わず、母親の膝元に顔を埋めた。
「どうしたのじゃ、可愛い妾のアルよ!何があったのじゃ!?」
アーリヤカに頭を撫でられるなり、今度は床にひっくり返って、ジタバタと暴れながらアルドリックは喚く。
「テオドリックだ!あの車椅子が俺様を侮辱したんだ!母上、アイツを殺してくれ!」
「おお、おお……」アーリヤカはアルドリックの顔を上げさせ、優しく抱きしめながら頷いた。「無論じゃとも!あの『鳥喰い女』の息子の分際で、可愛い可愛い妾のアルを侮辱するとは……!決して只では済まさぬが故、安心するが良いぞ」
そう言ってアーリヤカがアーゼルトを見やると、アーゼルトは大げさに肯いてみせる。
これくらい、お安いご用だ。
こうやって愚かなアルドリックを皇太子に、そして次の皇帝に据えてさえしまえば――叔父である彼こそがガルヴァリナ帝国の全権を我が物と出来るに違いないのだから。
「可愛い甥っ子達の頼みだ、誰が嫌だと言おうか」
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――ペチン!
音を立てて皇太子ヴァンドリックは頬を叩かれはしたが、もうすぐ出産を迎える若い女の細腕で、それも不甲斐ない己に気合いを入れるために叩かれた事もあって――悲鳴どころか、溜息が出てしまったのだった。
「……ハァー……」
しかし、あまりにも情けない姿に周りは余計に憤る。
「キアラカよ、もっと力を入れて叩け!このままでは殿下は腰抜けのままだ!」
「はい、レーシャナ様!」
ペチン!ペチン!と連続で頬を叩かれて、流石に鬱陶しくなったのか、ようやく彼は言葉を絞り出す。
「……そのくらいにせよ」
頬を叩く手は止まったが、彼の愛する女達の憤りは収まらない。
中でも彼の最愛、ミマナ皇太子妃がギュッと眉根を寄せて、
「ですがヴァン様。テオドリック殿下への見舞いがまた断られたからと言って、上に立つ者が覇気を失っては臣下も見くびりますわ」
「見せぬよ、見せぬ。彼らの前で見せようものなら、国が傾くと大騒ぎになるだろう」
しかし、ヴァンドリックだって弱みを晒して甘えたい時はあるのだ。
ましてや彼を支えてくれる妃達しかここにはいない。
「ミマナ、レーシャナ、キアラカ。……私はテオにこんなにも嫌われているのだろうか?」
もうすぐ産み月のキアラカの見舞いに来て、寝台に腰掛ける彼の膝の上には、今しがた届けられた一通の書状がある。
『臣下の一人でしかあり得ぬ身には余る御慈悲と御栄誉を頂き、誠に恐悦至極に存じまするが、どうにも体の具合が優れず、涙ながらにお断り申し上げる無礼と不義をどうぞご寛恕下さいませ』
とか、
『偉大なる我らがガルヴァリナ帝国の英傑たる皇太子殿下並びに妃殿下がたにおかれましては、弥栄のご清栄とご健康をお祈りしておりまする』
とか――要するにお断りの手紙であった。
……しかも、テオの筆跡では無い。
彼に仕える臣下に代筆させたのだろう。
己と会いたくないのは仕方ないにしても、ここまで距離を取られるとは!
「嫌っている兄を庇って心臓が止まるまで鞭打たれる弟が、一体何処にいましょうか?」
とミマナは冷静に指摘するし、
「ええい、何度読んでも皇太子殿下相手に無礼千万!かくなる上は宦官に命じて無理矢理にでも引っ立てればよろしいのです!」
レーシャナは激怒する。
「殿下、泣きそうな顔をなさってはいけませんわ。私まで悲しく……」
慰めていたキアラカが、いきなり――うっと呻いて、大きく張った腹を押さえた。
「いかん!」
皇太子ヴァンドリックが自ら腰掛けていた寝台を退いてキアラカを横たえる。
「医者を!」
とレーシャナが声を上げようとしたが、キアラカは止めた。
「い、いえ、少し張ってしまっただけですから。これも殿下が情けなくておいでだからですわ!生まれてくる子のためにも、気合いを入れて下さいませ!」
そうだな、そうだ、とヴァンドリックは頷いて、優しくキアラカの腹を撫でた。
「キアラカの見舞いに来たのに、かえって私が励まされてしまうとは。済まなかったな」
多忙なヴァンドリックにはまだ務めが残っているのに来てくれた。
それを弁えている彼女は、先ほど叩いた彼の頬を優しく撫で返して、
「いいえ、私はしっかりとこの子を産んで見せますから。殿下も、どうか……」
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「それで。――【黒葉宮】を襲おうとした刺客は、ニテロドの手の者か?」
間もなく子を産む女に到底聞かせるわけにはいかない血生臭い会話。
務めに戻る帰路がてら、ヴァンドリックは別人のように冷静に、ミマナとレーシャナに確認する。
「……先日、【帝国第一学院】でアルドリック殿下に理不尽に虐げられていた平民の特待生を、テオドリック殿下が庇われたそうですわ」
近衛兵からも報告がありました、とミマナは続ける。
「【帝国情報省】の【草】を数名忍ばせておきましたら、案の定、不審者が井戸に毒を仕込もうとした現場を取り押さえましたの」
ふむ、とヴァンドリックが続きを促すと、今度はレーシャナが忌々しそうに言った。
「しかし、取り調べの前に自害されてしまったのです」
「何があった?」
「解剖した結果、腹の中から薄い特殊な膜に包まれた毒の塊が見つかりました」
飲んだ直後は問題ないが、時間が過ぎて胃液が出てくるとその膜が溶けて破れて――。
「ニテロドは毎度のことながら、毒殺についてはとことん悪知恵が回る……」
ヴァンドリックはほんのわずかに顔をしかめたが、
「キアラカの警護は?」
と訊ねた。
もうじき生まれるかけがえのない第一子だ。
断じてニテロド一族に害されるような事があってはならない。
「【幻闇】が担当しております」
「宜しい。それで……」
ここで打って変わったような、少しだけ愉快そうな顔色をレーシャナが浮かべた。
「【昏魔】から報告が。窮地を助けられたが追跡は振り切られた、と」
俄然、ミマナも目の色を変えた。
「まあ、【昏魔】が逃してしまうだなんて。『シャドウ』は一体何者なのかしら?」
「不思議な武器を両手に、何体もの【虚魂獣】相手にも無双の強さを見せたそうですが……」
不思議な武器だと……?
ヴァンドリックはまさかと思ったが、
(いや、ヴァンよ。その可能性が『ある』と言うだけで大違いだ)
と、彼の中で落ち着いた男の声がしたのだった。
(【ロード】、しかし……)
(それでもだ、ヴァンよ。ここは【閃翔】を派遣すべきだ)
(……ああ!)




