不安
織田勢は無事に木曽川を渡りきった。
信長本人が殿を務める、と言ったのが皆の兜の緒を引き締めたのか、夜討ちがある、と言われた時の醜態は嘘のように消し飛んでいた。
「美濃勢は木曽川を渡ってまで此方に来ましょうや」
万身仙千代が佐久間半介に問う。当然過ぎる疑問である。
美濃に侵入した織田勢は当然、渡河地点に抑えの兵を置いている。わざわざ抑えを置くのは、後続の援軍や補給のため、撤退時のためである。
大軍が渡れる渡河地点を確保して明確にしておかねば、後続や小荷駄が通過する時、と先程までの織田勢のように急に撤退する場合、急な渡河を行えない。結果、無事に織田勢は撤退する事ができた。
攻守所を変え奇襲追撃してくる美濃勢は速度が命である。しかし夜間である。彼等とすれば織田勢の渡河完了までに追いつかなかった場合、暗闇の中で川を渡る事になるのだ。渡河地点が判らねば通過できる浅瀬つまり渡河地点を探りながらの進撃となる。
当然速度が鈍り織田勢には追いつかない。速度が落ちれば、集団としての衝力も落ちる。つまり織田勢の渡河完了後に木曽川を渡っても奇襲は成功しない。奇襲の可能性を考慮しながら撤退した織田勢には時間的余裕が生まれ、攻撃に対する準備ができるからだ。
万身仙千代の疑問は、それでも美濃勢は木曽川を渡るだろうか、という事なのである。
「美濃勢からすれば、無理に戦わずとも我等を尾張に推し戻せばよい。それで彼奴等の勝ちよ。で、我等は尾張に押し戻された。大殿が美濃勢の動きを読んで自ら陣払いをなされたからじゃが…」
万身仙千代に問われた佐久間半介は、そこまで言うと信長の顔をチラリと見た。
視線に気付いた信長は半介と仙千代を見て、フンと鼻を鳴らすと半介の言葉を受けて、先を答えだした。
「彼奴等が夜のうちに木曽川を渡る事はあるまい。が、引く事もせんだろうし、お互い朝餉を食べ終わるまでは戦にならぬであろう。仙千代、見張りの他は寝ろと触れよ」
俺も寝るぞ、と鎧櫃を背に目を閉じた信長に、佐久間半介と万身仙千代は会釈しながら幕内を出た。
万身仙千代は信長の命を触れ回させる指図を終えると、再び佐久間半介に問うた。
「大殿はああ仰せでござりましたが、まことに翌朝まで戦にならぬのでござりましょうか」
半介はにっこり笑うと仙千代の問いに答え始めた。
「ふむ。今美濃勢が木曽川を渡ってきても戦にならぬ。此方にいいように撃ち据えられて終いじゃからの。それに朝まで待てば彼奴等の後詰が来よう。美濃勢とすれば、それから戦を始めても遅くはない。既に我等を尾張に押し戻して居るのじゃから、彼奴等はゆったり戦が出来る。我等を押し返してさえおけば、美濃の領内に害は無いからの」
万身仙千代はなおも質問を続ける。
「後詰が来るのでござりまするか」
「来るであろう。岩倉を落とした勘十郎さまからの報せによれば、岩倉の伊勢守は美濃と結んで居ったそうな。両者にすれば、大殿を討つまたとない機会、のがす筈は無かろうて」
「されど岩倉は落ちましたが」
「ははは、美濃勢からすればそればどうでもよいことじゃ。伊勢守はともかく、美濃勢は大殿を挟み撃ちに出来れば儲けもの、くらいにしか思うておらぬであろうよ。彼奴等は手を結んで居っても、大殿を討った後はいずれ敵同士に戻るのじゃからなあ」
「ははあ」
「ははあ、ではない。朝までは戦にならぬゆえヌシも早う休め。お側は大津伝十郎に任せる」
おい伝十郎、と佐久間半介が声をかけると、猫の様に静かに小走りで駆け寄ってくる大津伝十郎の姿があった。
師崎の陣屋に案内された九鬼藤三郎と豊田五右衛門は、陣代の千賀与八郎と対面した。
「千賀与八郎にござる」
「九鬼籐三郎でござる。控えておるのは…」
「よう知って居りまする、久しいのう五郎右衛門」
千賀与八郎はそう言ってじろりと豊田五郎右衛門を睨んだ。声をかけられた五郎右衛門は平伏したまま動かない。与八郎はフン、と鼻で笑った。
「で、藤三郎どの、戦の最中に何しに参った」
「大野城は落ち申した。岡部、一色もまもなく。戦もこの辺りで落とし所を探らねばと思いまして」
そう言って藤三郎も平伏した。
「左様でござるか。にしても、勝ち戦の織田方がそのような事を申すとは」
千賀与八郎は疑念の色を隠さない。
「我等は織田方ではござらぬ。鳴海の大和左兵衛どのを手伝うて居るだけでござる」
「大和どの、なあ」
「伊勢、知多、渥美、駿河…師崎の商いにも関わってくることでござる。大野城の佐治どのも、大和どのに力を貸すものかと」
「あくまで織田ではなく大和どの、にか」
「まあ…大和どのも織田の将ゆえ、表向きは織田方、という事になりましょうが」
与八郎は腕組みして黙り込んでしまった。彼が織田方となれば、渥美の田原党との小競り合いも手打ちとなる。渥美半島にも勢力を伸ばしたい彼としては、考え込まざるを得ない。
黙り込んだ千賀与八郎が再び口を開こうとした時、彼のオトナらしき侍が駆け込んできた。
「談合中に申し訳ありませぬ。殿、沖に異形の船が」
その報告に思わず与八郎は窓に駆け寄った。窓から見える景色には、浜辺から十町ほどの海上に見た事の無い船がいる。その異形の船を、彼の配下であろう小早、関船が何艘かで取り囲んでいた。
「あれは何ぞ」
あれは、と九鬼藤三郎が答えようとしたとき、異形の船から白煙と轟音があがった。思わず千賀与八郎は尻餅をついてしまっていた。間を空けずに再び白煙、轟音があがる。
何かが飛んできて、桟橋が嫌な音を立てて壊れるのが与八郎の視界に入った。
「あ、あれは何ぞ」
「…あれには、それがしの姉が船大将として乗って居る」
九鬼藤三郎の言葉の意味を飲み込めなかったのか、千賀与八郎はそうか、と間抜けな声を出した。
「…ではない、お主の姉が乗って居ると云うのか」
「左様。それがしが談判しに行くが、構わず大砲を撃ち込んでくだされと申してある」
「たいほう…とは」
「二貫ほどの弾を打ち出す鉄砲じゃと思うてくれ」
藤三郎の言葉が終わらぬ内に再び轟音、桟橋を離れて漂い出した小早に大穴が開いた。
「此処に当たれば」
千賀与八郎の膝ががくがく震えている。
「そうさのう、我等三人、死ぬか大怪我じゃろうなあ」
藤三郎の姉の船を取り囲んでいた師崎の船は、いつの間にか囲みを解いていた。
一色城の片付けもあらかた終わった。皆逃げ出した後だからあまり散らかってはいなかったけども。
よほど慌てたのだろう。母屋の暖かいままの麦飯が有難い…。
が、その暖かい麦飯を食べる暇も無い。
大野城の蜂屋般若介から急報が入った。水野党と岡崎党が一触即発らしい。
正確には水野党、星崎衆、とその誘いに乗った久松党の連合と岡崎党が睨みあっているらしい。
久松党と言えば、松平竹千代の生母、於大の方が、松平広忠と離別したあと婚いだ家じゃなかったっけ。
水野信元にすれば義理の弟の一族だ、誘いやすかったろう。…というかそんな話聞いてないぞ俺は。
まあ信元も自分達だけで岡崎党と対峙するのは不安だったのだろう。
此方から攻めるなとは言ってあるけど、どうなるかわからんな。岡崎党の鳥居忠吉と俺の密約は一部しか知らんことだし…ううむ。
「内蔵助」
呼ばれた佐々内蔵助が側に寄る。
「岡部、一色の沙汰はお前に任せる」
「それがしに、でござりまするか。殿は何処かへ行かれるので」
内蔵助は不安そうな顔をしている。
「小兵太を残すから安心しろ。俺は八郎と共に大野城に戻って、それから水野信元の所へ行ってくる。水野党と岡崎党がまずい事になりかけているようだ」
「…承知仕りましてござりまする」
「岡部、一色の地侍共に安堵の触れを出せ。それと師崎湊にも物見を出せよ。攻めてくる事は無いだろうが、用心せい」
「ははっ」
「おーい、八郎、行くぞ。いつまで飯食べてるんだ」
聞こえないふりでもしていたのだろう、八郎がエッ、という顔をした。…まったく。




