潮の変わり目
日も暮れようとする中、太原雪斎の目に映る傷ついた鳴海城は、まさに戦う為だけの城に見えた。
「西と東でこうも縄張が違うとは…朝比奈どのはかなりてこずったのじゃろうの…ご連枝どの、よくも助けて下さった。助十郎に言うた事は取り消そう。この通りじゃ」
深々と頭を下げる雪斎を見て松平元信も慌てて平伏した。元信率いる岡崎勢は一旦刈谷城に戻っていたが、安祥城を進発した雪斎に乞われ、刈谷城に知多の抑えとして岡崎勢のほぼ全軍を残し、僅かな馬廻、使番と共に雪斎に付き従っていた。
「鳴海を落としはしたものの、真に軽率であったと恥じ入るばかりでござりまする。初陣の誤ちとは云え、松平党を任せられた者として深くお詫び申し上げまする」
「もうよい。それよりもそなた、鳴海の大将と知り合いの様じゃな」
「は…顔見知りではござりまするが」
「どの様な男じゃ」
元信が雪斎の問いに答えようとすると突如、耳をつんざく轟音がした。轟音から遅れて、何かが壊れる音が続く。
「織田の水軍の不意打ちにござりまするっ」
二人の下に駆け込んで来たのは鳥居彦右衛門だった。
「水軍じゃと」
雪斎が本丸館の欄干から身を乗り出した。織田木瓜の旗をはためかせた関船が何隻か、鳴海湊の入江まで入り込んでいる。それより雪斎が目を奪われたのは関船から少し離れた所に浮かぶ異形の船だった。彼の見るそれは、白煙の中から轟音と共に赤い光を放っていた。
「あれは」
それが太原崇俘雪斎の、この世で最後に発した言葉となった。
「…大将、御大将っ」
誰かに揺さぶられて意識を取り戻した元信は、思わず辺りを見渡した。
「おお、気付かれましたか。城内は大騒ぎでござる」
声の主は石川助十郎だった。
「何があった…こ、これはどうした事じゃっ」
回りを見渡していた元信の視線が止まった先には、肩から上の無い血塗れの雪斎禅師の体が倒れている。
「お、おそらくあの異形の船の仕業かと」
助十郎の視線の先には海に浮かぶ見たことの無い形の戦船が浮かんでいた。赤い光と轟音を発している。先程まであった本丸館の海側の壁は、欄干ごとなくなっていた。
「壁が無い…道理で風通しがいい訳だ」
元信の視線はまだ、雪斎禅師であった死体に釘付けだった。肩から上がえぐれて頭が無い死体というのは、あまりにも異様過ぎた。目の前の光景に現実感が無いのだろう、元信は現在の状況にはまるでそぐわない事を口にしていた。
「お、御大将、気は確かでござりまするか」
「ふむ…おうとも、気は確かじゃ…おい、彦右衛門、目を覚ませ」
雪斎禅師と同じ様に床に突っ伏している鳥居彦右衛門。元信が肩を揺するが、彦右衛門が目を覚ます気配は無い。
「助十郎、手伝う故、彦右衛門をおぶって連れて行け。息はある、死んでは居らぬ。儂は禅師をおぶって連れて行く」
「連れて行けとは、どちらへ…と、それよりそれがしが禅師さまをおぶりまする」
「儂がそう、したいのじゃ。此処でぼさっとしていてはあの異形の船にやられてしまう、溜まり曲輪まで下りればあの船からは此方は見えぬ…戦とは云えあまりにも不憫な亡くなられ様じゃ。儂におぶらせてくれ。儂の師じゃ、分かるであろ」
「は、はっ」
まだ完全に日が落ちていない為、海上から砲撃を受ける鳴海城内の混乱ぶりは船上のお蓉と鳴海新九郎からもよく見てとれた。
「本丸曲輪を見ろ。ありゃあ…誰かに直に当たったたかも知れぬ。当たった奴は生きては居るまい」
「でしょうね…新さん、あと三度程せえじしたら此方も退きましょう」
「斬り込みはせずともよいのか」
「二百程で斬り込んだとてたかが知れて居ります。それに本丸館で誰かが死んだとなれば、名のあるどなた様か死んだに違いありません。一旦退いて、夜中のせえじに備えましょう」
「寝る暇も与えぬ、というのじゃな。そなたも意地が悪いのう……与兵衛、退き旗をを揚げろっ」
雪斎禅師の遺体を運んだ事で、元信の陣羽織はどす黒く染まってしまっていた。それを脱ぐ事もなく、溜まり曲輪の上座にどかっと座った元信は、井伊内匠助や庵原安房守など、雪斎麾下の今川譜代の諸将を集めた。彼にとって困った事に今ここに居る今川諸将の中で、いきなり最高位者になってしまったのである。今後の方針を決めねばならなかった。
「残念ながら、雪斎どのは亡くなられた。織田の水軍の仕業じゃ。皆も知って居ろうが、弾の重さが一貫目もあろう大鉄砲を撃ち込んできたのじゃ。折悪く、そのうちの一発が雪斎どのに命中した」
諸将達は元信に集められた事を不審がっていたが、雪斎どのは亡くなられた、という言葉に諸将のの皆が絶句した。突如泣き出す者もいる。
「ご遺体は隣に移してある。皆々方も検分なされよ」
手を合わせ瞑目する元信がそう言うと、諸将が我先にと隣の居室に駆けて行く。諸将の中で一人残ったのは井伊内匠助だった。彼は元信の内室、築山殿の従兄妹にあたる。
「内匠助どの、ご遺体を見に行かれぬのか」
「それは後程でようござる。ご連枝どの、この後どうなされるのか」
雪斎の遺体を見て肩を落とした諸将が戻って来る中、井伊内匠助は元信に今後の方針を問うた。皆が改めて着座すると、元信は皆を見渡した。
「それがしの指図に不服のある方々は後から駿府様に申し出て下され。恐れながら今川一門としてそれがしがこれより差配致しまする。皆さま、宜しゅうござるか」
元信は皆を見渡した。誰も声を発する者はいない。
表立った不服があろう筈はなかった。先年まで人質だったとは云え、今では今川義元の姪の夫なのだ。それに居並ぶ皆それぞれが、自分が雪斎の様に大軍の指揮が出来るとは思ってはいなかった。代理指揮者に当てられる事を内心恐れていた。
「不服はござらぬ。ご連枝に草履を預け申す」
庵原安房守がそう言って平伏すると、皆がそれに習った。
「忝のうござりまする…では井伊どの」
「はっ」
「手勢を連れて朝比奈どのの下へ向こうて下され。朝比奈どのの下へ着いたら、退き戦の支度を」
「退く、のでござりまするか」
「うむ。禅師を失うた事が今知れ渡ればどうなりましょうや…味方は狼狽して崩れる事必定、織田が雪崩をうって攻めて来る事も必定…余力がある内に退いて、一歩も譲らぬ姿勢を見せねば駿府も、三河も崩れまする。それがしの見立ては間違っておりましょうや」
「いや、それに相違ない。相分かった」
「忝のう存ずる…庵原どのは」
「はっ」
「諸将を引き連れ刈谷へ…知多の抑えをお頼み申しあげる。刈谷に着いたならば御屋形様への早馬を」
織田水軍の攻撃により被害が出ている為、朝比奈勢の下へ向かう井伊勢は約一千。刈谷に向かう庵原安房と今川諸将の軍勢は三千八百ほど。鳴海に残るのは元信とその馬廻達だけになる。
「それは承知つかまつるがご連枝、まことに全て連れて行ってよいのか。そなたの下に残るのは馬廻のみになるが」
「庵原どのの心配はご尤もにござりまするが今はお味方を無事に駿府に戻すのが先。此方からも刈谷へ早馬を出しまする。さすれば岡崎党はこちらへ駆けつけましょう…今は我等のみで充分でござる」
「相分かった。ではお先に御免」
今川諸将が支度の為に溜まり曲輪を出ていくと、残ったのは元信と石川助十郎、意識を取り戻した鳥居彦右衛門だけになった。
「殿、駿府に居った頃を思いだしまするな」
意識を失っていた事を恥じているのか、それを隠す様に彦右衛門が大声で笑った。
「そうじゃのう…そういえば七之助はどこへ行った」
「おそらく厩屋かと」
「丁度よい、そのまま早馬として刈谷に出せ。仔細は分かるな」
「かしこまってござりまする」
「助十郎、大六は居るか」
助十郎が小栗大六を伴ってやってきた。
「小栗大六、参上つかまつりました」
「おう、大六。味方の様子は分かっておるか」
「はい」
「よし。では岡崎まで使い致せ」
「はっ…で、口上は」
「ない。鳴海の様子を鳥居の爺に包み隠さず話せばよい。後は爺が何とかするわ」
「はっ」
小栗大六が出て行くと助十郎が心配そうに尋ねた。
「大六どので大丈夫でござりましょうか」
「大六は余計な事は云わぬ奴じゃ。こういう時の使番は大六が一番じゃ」
夜明けまでは長い。酒ばかり飲んでいても仕方ない。対岸の今川勢も静か…とは云えがっつり寝る訳にもいかない。下級指揮官てのは辛いよなあ。それほど下級指揮官ではない筈なんだが、城も失った今となっては、使いっ走りの下級指揮官に甘んじるしかない。
「まだお休みではござりませなんだか」
「お前達こそ寝ないのか」
幕内にやってきたのは藤吉郎と般若介、内蔵助の三人だった。どうやらどぶろくを盗みに来たのではないようだ。三人の格好が普段と違っている。
「何で足軽威しなんて身に着けてるんだ」
足軽威しというのは足軽用の甲冑の事だ。足軽の軍装品は大量生産の貸与品で、大量生産品だから作りも簡素で組頭、物頭クラスとは全然違う。
「へへへ…ちょっくら対岸に忍び込んで来ようと思うて居るところでして」
バレるんじゃないかと思うが、どうやらそうではないらしい。御覧下さりませ、と藤吉郎が左腕を突き出してきた。三人の左腕には浅黄色の布切れが巻き付けてある。
「朝比奈勢の小者や足軽共は、左の腕に合印の浅黄色の手拭いを巻いているのでござりまする。これを巻いて居れば、味方だとまず疑われねえので。へへ」
…しゃべり方も足軽小者の様になっていた。藤吉郎はともかくオトナのお前達まで…。俺の視線に気付いたのか、内蔵助が弁解を始めた。よし、聞いてやろうじゃないか。
「決して暇潰しや思いつきではござらぬ。殿のお見立て通り中入の支度でもして居ったら一大事、それで物見に出ようと思い至った次第でござりまする…」
「物見は藤吉郎と誰ぞでいいだろう。オトナ筆頭のお前達まで行く事はないだろう」
「されど…我等が直に見た方が小者の報せよりは…」
最初に暇潰しや思いつきって答え言っちまってるじゃないか…。
「…よし、行って来い」
「はっ」
そう露骨に胸を撫で下ろすやつがあるか、全く…。
「内蔵助さまは嘘が下手でござりまするな」
「ほんにのう」
「五月蝿いぞ二人共」
「そろそろ静かにしませぬと…」
藤吉郎が川からそろそろと上がってゆく。そのまま腹這いになってしばらく進むと、ヒョコっと頭をあげて辺りを見渡した。後ろを見て、水面から顔だけ出している般若介と内蔵助に合図する。
「お二人共まるで河童の様じゃ…ようござる、静かに進まれよ」
泥だらけの三人の河童が、忍び足で篝火を避けながら歩いていく、が今川勢とて監視の目が緩い訳ではない。
「誰じゃっ」
「儂じゃ儂じゃ。皆酔うて寝てしもうた故、川面で顔を洗ろうて居ったらそのまま落ちてしもうてのう」
「儂とはどこの儂じゃ…まあよい、ヌシ等も急いで支度せい。どぶろくなど飲うで居る時ではないぞ」
不寝番の足軽は藤吉郎達の左腕を確認しながら、三人を急かせている。
「…何ぞ有ったのかえ」
「それも分からぬ程酔うて居ったのか。仕方のない奴等じゃのう…殿軍は我等の殿さまじゃ、退き戦とよ」
不寝番の答えに、思わず河童般若介が素っ頓狂な声を出した。
「退き戦となっ。何故じゃ、中入りではなかったのかえ」
「中入りとは、まだ酔いが抜けて居らんようじゃな。訳は知らぬが退き戦とよ。ささ、早よう行け」
河童達を咎める事もなく、見廻りの不寝番はその場を去って行った。三人は思わず周りを見渡し、様子を伺った。確かに静かではあるものの、人の動きが多数ある事が伝わってくる。
「退き戦と言うて居ったが、まことかのう。どう思う、藤吉郎」
「…内蔵助どのは急ぎお戻りを。それがしと般若介さまでこのまま残って様子を探りまする、また何か判りましたら、般若介どのも殿の下へご注進にお戻り下されませ」




