誤算
織田勢の本陣は、先程までの活気が嘘の様に静まり返っていた。
「鳴海が落ちた、まこと相違ないな」
「はっ、信広様からの使番は米津又八でござりました。又八は信広様幼少の頃より仕える馬廻、報せは今川の流言ではござりませぬ」
信長の問いに答える万見仙千代の顔も強張っている。
「仙千代、監物を呼べ」
「はっ」
武田勢は木曽谷を攻めるという名目で恵那の岩村城を攻め落とし、その岩村城に木曽谷の牽制として一千の兵を置いていた。小牧山に陣取る織田、武田の連合軍は合わせて一万ニ千。内訳は織田勢八千、武田勢四千である。対する美濃勢一万は大垣城を背に彼等と対峙していた。
「お呼びでござりまするか」
「ヌシの事だ、もう知って居ろうが。鳴海が落ちたとよ。二日早かったな」
「岡崎党の中入りによるものでござりまするな、いやはや何とも。岡崎党は良い主に恵まれた様にござりまする」
「その事よ。竹千代め、小童と思うて居ったが、初陣で良き戦をするものよ」
「ぜひ味方にしたいもので」
「カハハ、あ奴は存外頑固者じゃぞ。今川屋形の目の黒い内は織田になぞなびくものか…それはまあよい。監物、佐久間半介、玄蕃と共に急ぎ三千連れて那古野へ向かえ。委細は任せる。遅れる者が出ても構わぬ、急げ」
「武田勢の…馬場どのにはどう説明なされまするので」
「正直に話す。馬場とて俺が残るのであれば文句もあるまい。…此方が兵を割いたとて義龍は動くまいて。これまでの戦で此方に散々にしてやられておるからの…行け」
「はっ」
「ちと盤面が面白くなってきたのう、カハハ」
安祥城に本陣を置く今川勢に鳴海攻めの詳細が知らされたのは十四日の夕方であった。
「ご連枝どのもまだまだ青い。鳴海を落としたはよいが、知多はどうするつもりかのう、助十郞。ご連枝どのはその後どうじゃ」
「はっ。我が主は鳴海勢の退去を見てすぐさま常滑に戻るべく支度をなさって居りました。鳴海中入りの折の様に師崎衆に頼る訳には参りませぬ故、陸路にて今頃は刈谷に着いて居る頃合いかと思われまする」
「戻ったのか」
「…は」
「ご連枝どのは織田の流言を逆手に取って鳴海に中入りしたのであったな。知多の国人が騙された、と気付けば何を思うか…ご連枝どのはそこまで読んだ上で中入りを為されたのであろ。戻ったらどうなるか、思案なされなかったのか」
「あ…」
「思うてもみよ、知多の国人共は今川、織田どちらに付いてもよいのじゃ。そんな中岡崎党は織田の助勢、という流言が流れる、逆手に取ってと云うが岡崎党が鳴海を落としてしもうては、岡崎党は今川の与党と云うておる様なものではないか」
「それは…しょ…初戦の勝利で舞い上がってしまい…我等オトナ一同…妙案と賛同した次第、でござりまする」
「さもあろうな…織田の援軍の体であれば勝ち負けどちらに転んでも知多を抑える事が出来たものを…惜しい事をしたのう。まあ起きた事は仕方ない。朝比奈どのの軍勢はいかほどになったか」
「はっ、およそ三千五百にごさりまする」
「やはり後詰せねばならんかのう…助十郞、ご連枝どのの下へたち戻って、知多の鎮撫には充分に心せよと伝えよ」
「畏れながら…その様に厳しゅうなりましょうか。厚かましき事ながら、それがしも初陣でござりまする、後学の為、主を誤らせぬ為にもご教授下されませ」
「八八八、ご連枝どのもよいオトナを持ったの…儂の言うた事を道すがら噛み砕いてみよ。それで答えが出るわい。ご連枝どのを誤らせぬ様にな。下がってよい」
「…は、はっ」
笠寺に戻る道すがら、大草善四郎が追っかけて来た。
「皆鑓を下げろ…どうした善四郎」
「は、はっ。再びお仕えしたいと思い、鳴海を飛び出して参りました」
「…元信どのの下に居った方が出世すると思うけどなあ…よくぞ戻った、礼を言うぞ」
「も、勿体ないお言葉でござりまする…ござりまするが…鳴海が落ちたのはそ、それがしの…」
「いい、何も言うな。本当によく戻った…もう泣くな」
決してお前のせいじゃないぞ、善四郎。
幕内に案内されると、織田信広と異母弟勘十郎、それに水野藤四郎が駆け寄って迎えてくれた。鳴海落城の報せで相当肝が冷えたんだろうな。まことに済まねえこって…。
「おお、戻ったか。中々上手くいかぬものだの…まあ息災で何よりじゃ。又八、左兵衛に湯漬けを取らせよ」
「突然の中入りがあったとは云え、目論見通りとならずに不甲斐なき戦、信広さまにどの様にお詫び申し上げるべきか、言葉が見つかりませぬ」
「面を上げよ。目論見通りとならなかったのは岡崎党の中入りのせいであろ。全て算盤通りともいくまいて。城主のオヌシには辛かろうが、鳴海が落ちるのは策の内ではないか、案ずるな」
「勘十郎さま…有難きお言葉、忝う存じまする」
「兄上、これで全軍揃いましてござる。鳴海勢、水野党、我等合わせ四千。策の二段目でござりまするな」
そう言いながら織田勘十郎はパンと手を鳴らした。その音が合図するかの様に、俺の元に焼き味噌のたっぷり乗せられた湯漬けが運ばれてきた。
「おう。水野どの、支度はよいか」
「はっ。大高、沓掛にそれぞれ二百五十、遺漏なく備えて居りまする」
「よし…これで朝比奈勢をまこと引きずり出せるか、左兵衛」
「はっ。十中八九、朝比奈勢は我等に攻めかかると思われまする。岡崎党の中入りは驚きましたが、その事が尚更朝比奈勢に拍車をかけておりまする。まず間違いないかと」
「…オヌシが云うのだから間違いないとは思うが、何故そう言い切れるのじゃ。そうは思いませぬか、兄上」
勘十郎は頭もいいし戦の経験は積んでいるけど、自ら采配を揮った事は無いからな…やっぱり心配なんだろう。
この作戦の要は攻め手の今川勢が大軍であることだった。大軍は便利だ。行く先々の小勢力は大抵が降伏するし、戦力を集中して、あるいは分派して運用と、戦力を柔軟に使用出来る。それにちまちま小手先で戦う必要がないのが素晴らしい。『大軍に区々たる用兵などいらぬ』、って誰かが言ってたよな。大抵、力押しで勝てるのだ。
だけど大軍にも欠点がある。兵糧を大量に消費する事と、損害が大きいと回復に時間がかかる、という事だ。
何もしなくても飯は食べる、だいたい三日分は自弁としても、残りは配給せねばならない。戦いが始まれば死んだ人間は戻ってこないし、重傷を負った兵士は回復に時間がかかる。だから大軍を運用する場合、糧秣の消費量と兵員の損害をどこまで許容出来るか、その見極めがひどく難しい。糧秣はともかく兵員の損耗に関しては、大抵は一割から二割の損害が戦闘を止めるギリギリのラインだ。
兵力をすりつぶしても戦力を回復出来るのであれば、どんどん進むだろうが、兵農分離の進んでいないこの時代、それはかなり難しい事だ。兵士の成り手の何割かが農民だから、彼らを失う事は国の生産力の減少につながる。
既に今川軍は朝比奈勢を千人近く失っている。
岡崎勢が素直に鳴海を攻めていれば違っただろうが、今川軍を率いる雪斎禅師からすれば今川本隊が千人近く損害を受けるというのは計算外だった筈だ。
そしておそらく朝比奈勢は退く事は出来ない。先鋒軍だし、鳴海攻めに手間取った挙げ句、鳴海を落とした功績は岡崎党にかっさらわれて、しかもその岡崎勢は退いてしまっている。岡崎党の退却については敵だからどんなやりとりがあったか知らないが、朝比奈勢の将士にしてみればたまったもんじゃないだろうし、何より先手としての面子もある。彼等にしてみれば敵の俺達より岡崎勢に怒り心頭だろう。
こちらとしても岡崎勢がいないから当初の想定よりやりやすい。単純に対峙する兵力が当初の想定より減っただけでなく、いきなり中入りしてきたように、何をするか分からない相手がいないのは安心出来る、もともと博打のような作戦だったけど、勝算とまではいかないが、大負けする事もなさそうだ。
「…成程。一万四千と聞けば確かに恐ろしいが、実際に戦っておるのは朝比奈勢だけ、か…」
「負けが込んだ、と思えば雪斎禅師の後詰とて朝比奈勢の退き戦の時しか出て来ぬと思われまする」
「されど、今川勢が勢い込んで後詰を繰り出したならばどうするのじゃ」
「その時は那古野まで退きまする。されど、美濃の情勢がそろそろ雪斎禅師の下にも伝わる筈。織田と武田が美濃に出張って居る事が知れれば、雪斎禅師は無理せず退くと思いまする」
「成程…よう判った」
刈谷を抜け常滑に向かう松平元信の下に合流した石川助十郞は、息つく暇もなく元信に状況を説明していた。
「そうか、儂の言うた事を道中噛み砕いてみよ、と申されたか。お怒りであったか」
助十郞にそう訊ねた元信の顔には全くと言っていい程表情が無かった。
「いえ…ただ、喜んで居られる体には見えませなんだ」
返す助十郞も言葉に力が無い。
「左様か。今思うと確かに禅師の云われた通りじゃ。織田の援軍の体であれば、どちらに転んでも知多は揺るがなんだ。鳴海を助けると云うて鳴海に渡って、助ける城が落としたのでは師崎衆もさぞ怒って居ろうな。底が浅かった様じゃのう」
「は…我等オトナがお止めすべきでござりました。そこについては禅師もお怒りでござりました」
そう言うと、助十郞は深く平伏した。
「済まぬのう…鎮撫に心せよ、か。落とした鳴海も、刈谷も失うかも知れぬのう」
「雪斎禅師が刈谷まで出張れば、織田も攻め返しては来ぬのでは」
問い返す助十郞の顔は泣きそうになっている。
元信はつい天を仰いだ。二人とも若年であり、初陣の喜びこそあれ全てを見通して戦に出るなど不可能に近い事だった。
「鳴海の縄張をオヌシも見ただろう。織田に攻め返されてはとても守れぬ。東は固いが、西は脆い。その様に仕上げてある。大和左兵衛という男、ようもあの様な城を造りあげたものじゃ。それに、禅師が刈谷に出張ったとてその時は知田の国人、水軍から橫鑓突かれよう。そうなれば禅師とて軍をお退きなさるわ。岡崎党の力を示さんとしたばかりに…ぬかったわ」
余程苛ついたのか、元信はつい爪を噛み千切っていた。




