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2015.06.03

 息抜きに、久々でカードワースを引っ張り出す。

 ラスボスがとんでもなく強い。

 いや、これ、能力珠が白でペカーッと光ってないと無理ゲーへ分岐する仕組みか?

 そんなパーティは作ってないぞ。

 こういう時はアレだ、究極兵器「はと」を使うしかない。

 コード無視、防御力無視、回避無視の究極チートの殺し屋「はと」。

 「ぽっぽー」と一声、ラスボスをサクッと殺してくれた。

 理不尽には理不尽で返すのがモットーだが、倒せる予定じゃなかったらしく止まってしまった。

 盛大なバグじゃねーか。(笑


 いや、カードワースの話じゃなくて。(遊んでばっかりに聞こえるがな)

 最近読んだ本。


『短編小説礼讃』 安倍昭著

『幽霊晩餐会』 赤川次郎著

『大学生の論文執筆法』 石原千秋著


 締切間際で切羽詰ってるわりに、三冊もよく読めたもんだと我ながら感心。(逃避ってこった)


 最近はなんだか「描写とは?」から「小説らしさとは?」にまで遡ってしまっていて、胃が痛い。よく批評なんぞで聞く「これは小説になっていない」という文言についてまで懐疑的になっている。

 以前は「描写になっていない」とか「人称がバラバラです」とかが大手を振っていたが、昨今それらは聞かれなくなってきたようにも思う。それだけ、蓋を開けてみたら誰にも描写や人称のカッチリした所が解からなかったから、ということだろう。なにせ小説の定義ではっきりしているのは「散文形式で書かれた文章」という一言だけなのだから。


 『散文:韻律や定型にとらわれない通常の文章。』(Goo辞書)


 実際には韻を踏んだ形式もリズム重視の形式もアリアリなので、本当に小説というものの定義は存在しないとしか言いようがない気がしてくる。定義がないのだから、それを指してどうこうとも言えなくなってしまうのだ。だからと言って、本当に何でもアリなのかと言えば、今度は好き嫌いとか大勢とか流行りの問題に引っ掛かる。これといった「ルールはない」のだが、なんとなくで決められた「ノリはある」のだね。そのような事にようやく自身の中で納得が出来てきたのだが、片方ではやはりどうにも腑に落ちないとも思っている。


 石原先生はもう完全に割り切って、ビジネスとして書く時限定の「文章の書き方」という定義で、執筆されている。文章とひと口に言っても、目的によって書き方は違うわけだから。

 石原先生の今回の本は、いちいち納得で読んでいた。『前提で誰もが知っている事柄は省け!』という事に関しては特に大きく頷いていた。私が理想論とか常識論とか言って一蹴する事柄のことだ。誰だって解かるような事柄をいちいち語る必要がどこにあるか、と思ってイライラしていたのは私だけじゃなかったのだと解かっただけでも収穫だった。

 よくある、事実の纏めに終始する文章だとか、誰に気を使ってんだか当たり前の結論をぶってくる文章だとか、そんなもんを読まされる方は時間の無駄だという事が解からないのか、と思ってしまうわけだが、そこに関連した『読んでもらうに値する文章を書け』という考え方そのものは間違いじゃないと確信した。


 短編小説礼讃の方では、小説とか書簡というものも、うかうかして書いたらいけないんだという事を冷や汗とともに実感させられた。証拠として残ってしまうのが、文章なのだ、と。もちろん、現代では作者そのものとその作者が書いた文章とを完全なイコールで結ぶことはナンセンスと捉えられているが、それでも作者の断片である事実は動かないわけだ。

 このような本に取り上げられるような作品を残してみたいという野心もあるが、片方で、こちらが思ってもないような部分まで深く分析されるという恐怖も感じる。ロールシャッハテストと基本で何も変わらないわけだからさ。文章が残されていれば、その人のある程度は分析が出来るという事は、考えてみれば恐ろしいことだ。

 それと同時に、人は、そういう風にしてまで、人の何が知りたいというのか、とも考えてしまうね。


 読者が私の書いた文章を読む時、読者は私に何を期待しているのだろう?

 それは私の書いた文章を初めて読む読者であっても、すでに私という作者を見知っていて贔屓にしてくれている読者にしても同じなわけだろう?(人それぞれ期待するそのものは違うにしても)

 最初の何行、何百文字の中で判断しての、何がしかの手ごたえを感じたから続きを読もうと思ったわけだろう?

 私の文章の、たった何百文字にすら含まれるもの、それは私の根底に流れて揺るぎない「何か」には違いないだろう。それが私の持つ世界観とか、私の哲学とか、私そのもの、あるいは私というオリジナリティの事なのだろうかと考えるわけだ。リピーターとなってくれる読者は、次の作品でも同じように滲み出てくるであろうその何かを期待して、また読んでくれるという事に違いないと思うんだ。

 自分ではよく解かっていないそれらの「何か」をしっかり掴むことが、やるべき事なのだとしたら、それはやっぱり、人称がどうの、描写がこうの、という問題でもあるんだな、と。

 マニュアルはないが、自分が従うマイルールは構築しておかねばならない、という事だ。


 ・・・また一周して元に戻るんだが・・・


 じゃあ、批評者としての「私」は何を基準に人を指導できるというのか?

「(私は)○○は××だ(と思う)」

 人の書く文章のうち、ほとんどすべてのものは、本来の略式なき形態としては、括弧を含んだものだろう。その大前提ともいうべきを、どこまでの適用だったなら相手が許容できるものなのか。いや、そんな大前提まで相手に気を使うというのがそも可笑しいと感じるのは、間違いなのか。

 以前、作品の形にして不満をぶちまけた事があるが、また一つ増えた気がする。


○公開教室のような場における、いわゆる「てにをは」のような基礎を何十周と繰り返す羽目に陥るという、構造的欠陥の問題。

○方向性の違う者、モラル定義の違う者が混在するために起きる、議題の道徳観念へのスライド現象。


 ま、批評に関してはしばらく措いておける。


 文章の下には、隠された意図だとか沈められた文意などがあったりするわけだが、どこまで書けるんだろうかと考えてしまう。ニーチェが難解極まりないと感じたのはまさしく、沈められた文意があまりに膨大過ぎて、資料として指定されたモノをほとんど読んでいなかったから歯が立たなかったわけで、ある意味でアレは悪文の見本、不親切の賜物、というべき書物だった。

 だが、あそこに記されていた内容がその紙面、文章量に対して何倍の容量を誇っているかは、意味がほとんど解からなかった私にも容易に想像が出来たものだ。文章とは元来、そういうものだったのか。隠された、沈められた文意をも含んで、ちょうど水を含ませたスポンジのようにずっしりと重いものだったというならば、今の読者にはどのくらいその重さが耐えられるのだろう。


 文章を書く時には想定読者を考えるべきだ、と『論文執筆法』には書かれてある。それは、対象読者の年齢層だけでなく、何をテーマとするか、そのテーマを対象読者はどの程度の重みで受け止めるのが通常か、という辺りにまで及ぶわけだ。


 ミライショウセツ大賞では、編集部はどういう作品傾向を求め、どの読者層を対象とし、その読者層はどの程度の読解力を持つと考えているのか、それはピクシブ作品の傾向から判断しているには違いないだろうが、額面通りに『今、流行っているもの』と受け取るのは危険な気がしている。

 なろうが視野に入っているのは疑いようがない。差別化を考えていないわけはない。だったら、一般的に知られるラノベジャンルの作品であるはずはない。だからといって、完全な一般向けエンタメでもあるまい。・・・消去法。



 まーいいや。好きに書く。(開き直り)


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