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第十二・五話 ミュシャとライラック

第一章 はじまり編 番外 になります。

ネタバレはありません。

本編で語られなかった空白の時間を書いていますので、本編と合わせてぜひお楽しみください♪

(今回は、第十二話の後に起きた出来事を描いております。)

 夕暮れ。ミュシャが洋裁店に戻るころ、街の広場には雨雲がかかっていた。

(明日は雨だな)

 ミュシャは馬車を降りて、空を(あお)ぐ。マリアが早めに出た方がいい、とミュシャに声をかけたのも納得の(くも)(ぞら)である。


「ただいま戻りました」

 ミュシャが洋裁店の扉を押し開ければ、ちょうど店を閉めようとしていたのか、マリアの父親がミュシャに手を上げた。

「おかえり、ミュシャくん」

 ミュシャが小さく会釈(えしゃく)すると、マリアの父親はニコニコと笑みを浮かべる。マリアの父親も、ミュシャと同様マリアを愛してやまない人である。マリアの様子を知りたいのだろう。


 ミュシャの方へと()け寄ったマリアの父親は、おや、と声を上げた。

「なんだか随分(ずいぶん)と懐かしい香りだね……」

 ふむ、とあごに手を当てたのもつかの間、「あぁ!」とマリアの父親は嬉しそうな表情を見せる。どうやら、香りが記憶を呼び覚ましたようだった。

「母さんの匂いだ」

 マリアの父を生んだ母――つまり、マリアの祖母、リラの香りである。


「あら、ミュシャくん、おかえりなさい」

 リビングから顔を出したのは、マリアの母親である。

「ただいま帰りました」

 ミュシャがペコリと頭を下げれば、マリアの母親はニコリとほほ笑んだ。笑うとマリアによく似ている、とミュシャはその表情を見つめる。


「ね、母さんの匂いがすると思わない?」

「お義母(かあ)さんの?」

 マリアの父親に手招きされ、マリアの母親はきょとんと首をかしげる。ミュシャに近寄ると、その言葉の意味が分かった、というように

「あら、ほんと」

 と口元に手を当てて、目を丸くした。


 マリアがライラックの香りを、と説明すれば、二人は納得がいった、という顔で互いに微笑む。

「マリアはお義母(かあ)さんのことが大好きだったものね」

「そういえば、母さんもずっとこの時期はライラックの香りを抽出してばかりだったな。あれ、大変なんだよね……子供のころから手伝わされていたけど、もう、しばらくライラックの香りがとれなくてさ」

 どうやら、マリアの父も、ミュシャと同じ目に合ったらしい。


 マリアの父親は、目ざとい。

「もしかして、ミュシャくんも?」

 ミュシャの苦い顔を見逃さず、そして、困ったもんだね、と苦笑した。

「なかなか大変だったでしょ」

「えぇ、まぁ……」

 ミュシャにとっては、どんなことでもマリアとの大切な思い出である。だからこそ、はっきりと否定できないのであるが。


「マリアったら、ミュシャくんには甘えちゃうのね」

「いえ、僕も、楽しかったですから」

 想像よりも大変な仕事であったことは間違いないが、それでもついそんなことを口にしてしまう程度には、ミュシャはマリアに甘い。


「さ、疲れたでしょう。お風呂に入って体を温めるといいわ」

 さっきお湯を張ったばかりだから、とマリアの母親に(うなが)され、ミュシャは早速、マリアからもらったバスオイルを使おう、と紙袋を握りしめてバスルームへと向かうのであった。


 マリアからのバスオイルを数滴、浴槽(よくそう)へと()らせば、ふわりとラベンダーの香りが広がった。心を落ち着かせる優しい香りと、ちょうど良い浴槽(よくそう)のお湯に、体が溶けてしまいそうだ。

(でも……)

 ミュシャはそのお湯を両手にすくう。


(せっかくのライラックの香りが消えちゃうっていうのも、なんだかもったいないね)

 きっとマリアのことだ。ライラックの香りをこれでもか、と抽出し、そのうち商品にするに違いない。

 そうは思うものの、あの瞬間……ライラックの香りを抽出していたあの間だけは、マリアと自分が同じ香りだったのか、と思うと、胸がきゅっと締め付けられた。


 マリアに恋をして、早数年が過ぎている。

 だが、今だ思いを伝えることは出来ず……ミュシャは、浴槽(よくそう)に顔を半分ほど沈めて息を吐いた。

(ライラック、かぁ)

 可憐な四枚の花弁は、服のデザインにも使えそうである。


(いつか、マリアにそういう服をプレゼントしようか)

 マリアにとっての思い出の香り。そこにいつか、自分も、思い出の一部としていれてくれはしないだろうか。

 ミュシャはつい、そんなことを祈ってしまうのであった。

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