第百九十・五話 ミュシャと父親
第十一章 ミュシャの独立編 番外 になります。
ネタバレはありません。
本編で語られなかった空白の時間を書いていますので、本編と合わせてぜひお楽しみください♪
(今回の第百九十・五話は、第百九十話の後のお話になります。)
マリアを送り届けたミュシャが実家に戻れば、先に家へと帰っていた父親が
「おかえり」
とミュシャに声をかけた。
ミュシャの表情を見て何を悟ったか、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。
「何かあったんだね」
穏やかな物言いに、ミュシャは、父親には隠し事は無理だ、と悟る。マリアの両親と同じく、やたらと人の機敏に敏いのだ。年の功だろうか。
「ホットミルクを入れてあげよう。寒いから、先に風呂へ入っておいで」
ミュシャは力なくうなずくと、浴室へと向かった。
マリアからもらったバスオイルを浴槽へ垂らして、はぁ、と息を吐く。
(旅だなんて、言わなきゃよかった)
マリアが何を考えるかなんて、手に取るようにわかっているはずなのに、どうしてそんなことを口にしてしまったのだろう、とミュシャは自らの発言にあきれるばかりだ。
もしも、マリアの店がここまで繁盛すると知っていたら、ミュシャは独立の時に、マリアを誘うことだって考えることが出来たのに。
――いや、そうしなかったのは自分か。
マリアの店が繁盛するなど、考えてみれば容易に想像できたこと。だが、独立を考えていたころは、ミュシャは自分のことで精いっぱいで、それから先のことなど想像も出来ていなかった。
冷静になれば、いくらでもマリアと一緒にいることは出来たのに。
だが、それが甘えであることも、ミュシャには分かっていた。マリアとはもう友達以上にはなれないし、ミュシャとしても、マリアはやはり家族のような存在に違いない。
あの頃ほどは好きだと陶酔することも出来ず、マリア自身の思いがどこへ向いているのかも、想像が出来た。
何より、今のマリアにとっての幸せが、人を雇うことでも、ミュシャと共に働くことでもなく――旅に出て、新しい香りに触れることなのだろう、ということは、ミュシャが一番よくわかっていた。
わかっていたからこそ、つい、口をついて出てしまったのだろう。
ならば、とミュシャは浴槽を出る。
自分がすべきことは、マリアが旅に出るという選択をした時、マリアが安心して旅をすることが出来るようにしてやることだけだ。
旅の準備や、旅の道中、マリアが困ったことがあった時、助けてやれる人物は限られている。
「そう簡単に、会えるものかな」
ミュシャはドライヤーで髪を乾かしながら、その人物を頭に思い浮かべる。
「そもそも、会って、なんて頼めば良いわけ」
今更どんな顔をして、と思いながらも、ミュシャはその時が来たら、と考える。ありえない、とは思いつつ、万全な準備を怠らないのが、ミュシャという人物であった。
この後、なんの運命か、まさにその人物に出会うことになるとは知らない。
風呂を出れば、マグカップからふわりと優しい香りと共に湯気が立ち上がり、ミュシャは父親の前に腰かける。
「なんだ、解決したんだ」
父親は穏やかな瞳をミュシャに向け、ミュシャはぷい、と顔をそむけた。
父親には、叶わない。
ミュシャにとっては、憧れの存在。背が高く、体つきも良くて、ゴツゴツとした職人の手を持つ男。いかにも職人、といった風な寡黙な雰囲気とは裏腹に、明るい性格も、ミュシャにとってはうらやましささえ感じられる。
ミュシャは、そんな父親とは正反対で、父親は母親に似てよかったと、ミュシャの容姿を褒めるが、ミュシャにとっては何の慰めでもなかった。
もちろん、今はもう、ミュシャも自分自身を認めているし、父親には純粋な憧れの気持ちばかりだが。
「ねぇ、父さん」
「ん?」
「僕の言ったことは、正しかったと思う?」
「マリアちゃんに、旅に出れば、と言ったことか?」
「そう」
父親は、そうだな、と遠くを見つめる。ミュシャの気持ちはすべて、わかっているのだろう。そのうえで、父親として何と答えるべきか、少し迷っているようだった。
「マリアちゃんを一番近くで見てきたミュシャが言うなら、間違いはないんじゃないか」
父親ののんびりとした答えに、ミュシャが顔を上げる。
「決めるのは、マリアちゃんだしなぁ」
そう、決めるのはマリアだ。
「後悔してるのか?」
「少し」
ミュシャがむすりと口を突き出して答えれば、父親は笑った。
「はは、少しか。それなら、問題ないさ。そういう時は、大抵、マリアちゃんが旅に出なかったとしても……後悔するはずさ」
「そういうもの?」
「あぁ」
ミュシャはホットミルクに口をつけ、マリアが旅に出なかったら、と考える。
(きっと、僕は安心して……それから、もしかして自分が引き留めたかも、って考えるかな。マリアの成長のチャンスを、奪った気分になる? 新しく人を雇うってことになるから……それも、心配だな)
ミュシャは様々なことを考えて、
「確かに」
と苦笑した。
「旅から帰ってきたら、きっとマリアちゃんはもっと素晴らしい調香師になるさ。そしてきっと、旅に出てよかった、と思ってくれる」
それが答えじゃないか、と父親はすべてを見透かしたように笑う。
年の功だろうか。
ミュシャを安心させるためとはいえ、父親の言葉には説得力があり、ミュシャは、やっぱりまだまだかなわないな、と目の前に座った男を見つめる。
ミュシャにとっての憧れの存在。
いつか、そんな父親を助けて、そして、そんな父親を超える存在になりたい。
ミュシャは、自分の今の願いに気づいて、ふっと微笑んだ。
「僕も、マリアに負けないくらい頑張らなきゃね」
ミュシャの言葉に父親はうなずく。
くしゃくしゃとミュシャのグレーがかった髪を撫でる手は大きくて、あたたかかった。




