第百六十二・五話 シャルルの家族
第九章 思い出の香り編 番外 になります。
ネタバレはありません。
本編で語られなかった空白の時間を書いていますので、本編と合わせてぜひお楽しみください♪
(今回の第百六十二・五話は、第百六十二話の後のお話になります。)
「ただいま帰りました、お母さま」
東の国にいるはずの娘が、夜も遅い時間に玄関先で立っている。突然の帰省に、ソティは思わず目を見開き、アーサーとシャルルは顔を見合わせた。
「おかえりなさい、エリー」
びっくりしたわ、と口では言いつつも、ソティはゆっくりとエリーを抱きしめる。
「驚かせようと思って」
「どうしたんだ、急に」
「あら、妹が急に帰ってきたらまずい?」
「まさか。姉さん、おかえり」
シャルルも軽くエリーと抱擁を交わし、アーサーはしかめ面ながら妹のカバンを手に取る。
家族総出でエリーを出迎えれば、エリーはにこりと笑みを浮かべた。
エリーは、母親の記憶が戻ったと聞き、慌てて駆け付けたという。
「お父さまの香水で、お母さまの記憶を取り戻す、なんて聞いたときはびっくりしたけど。まさか、本当に戻るとはね」
ソティはすっかり、夫の記憶を思い出して上機嫌である。毎日アルバムを開いては、アーサーかシャルルを捕まえて、ここに行ったときはああだった、とか、ここではこんなことがあった、とか昔話を聞かせているのだ。
エリーはいまだに信じられないようで、紅茶に口をつけてから母親を見つめる。
「お母さま、もう大丈夫なの? どこか、調子の悪いところはない?」
「エリーったら。大丈夫よ、この通り元気だわ」
記憶を取り戻したおかげか、以前より明るくなったソティは、体調も随分と落ち着いてきたようだった。
「それにしても、魔法みたいなことがあるのね」
エリーは感心したようにつぶやく。
「正直、医者としても驚いた。香りが記憶と深い関係にある、という話は聞いたことがあるが……まさかこれほどとは」
アーサーも同調し、シャルルに視線を送る。
「シャルルが連れてきた調香師だ」
「へぇ……。どんな子なの?」
アーサーの言葉に、エリーの瞳がキラリと輝く。シャルルは、この後の展開を予想して、思わず苦笑した。
「それよりも、先に作ってもらった香りを紹介するよ。姉さんも気になってるだろう?」
エリーの話が始まる前に、とシャルルは席を立つ。マリアの作ってくれた、ソティの記憶を取り戻した香り。それに、父親が生前使っていたオレンジのコロンも、きっとエリーは喜ぶだろう。
「あら、逃がさないわよ。戻ってきたらたっぷりお話を聞かせてちょうだい」
無駄に美しい、母親譲りの美貌に笑みを浮かべたエリーに、シャルルは肩をすくめた。
◇◇◇
シャルルが香水瓶を持って戻ると、待ちきれない、とばかりにエリーが立ち上がった。そして、シャルルの手に二つの瓶を見つけて首をかしげる。
「二つ?」
「一つは、母さんの記憶を取り戻した香りだよ。もう一つは、父さんが使っていたもの」
「お父さまの香水も作ってもらったの?」
「あぁ、どうやら、代々伝わるレシピのようだ」
アーサーの言葉に、エリーはますます首をかしげた。
エリーは、まずは母親の記憶を取り戻した香り、とやらが気になったようで、その瓶にフタに手をかけて、母親を見つめた。
「これ、開けてもいい?」
ソティは、にこにこと嬉しそうにうなずく。むしろ、早く開けてくれ、と言わんばかりである。
「それじゃぁ……」
キュ、とフタを開けると、瞬間、ふわりと太陽の香りがした。
「いい香り……。あったかくて、優しくて……草の香りね」
なんだか懐かしい香りがする、とエリーは穏やかに微笑む。母親と父親の馴れ初めなど知る由もないエリーだが、なぜか、この香りを知っているような気がした。
「これが、お母さまの大切な香りなのね」
そして、母親の記憶を取り戻してくれた、エリーにとっても大切な香り。
「これを作った調香師さんは、きっととびきり素敵な方ね」
エリーの言葉に、家族全員がうなずく。エリーは、いつか会いたい、と思うのだった。
残る香水瓶を開けて、エリーは目を見開いた。
もう、何年と嗅ぐことのなかった、けれど、忘れるはずもないオレンジの香り。
「これ……」
父親の大きな手や、穏やかな声や、自分と同じブルーの瞳が鮮明によみがえる。
「本当に、お父さまの香りだわ」
エリーが欲しがった、懐かしくもほろ苦い香り。お姫様が使っていたのと同じ香りだというそれが、どれほど良い香水なのか、今だからこそ分かった。
「懐かしい」
ぎゅっとエリーがそれを両手で握りしめると、ソティがエリーの髪を撫でる。
「ずっと、欲しがっていたものね」
「今でもほしいって言ったら、またお父さまは困るかしら」
「ふふ、そうね。その香水はもう、あの人の物だもの」
エリーは笑ってうなずく。
そう、このオレンジの香りは――父親の香りなのだ。
◇◇◇
香りに満足したエリーは、満面の笑みでシャルルを見つめる。
「それで? これを作った方とはどうなったの?」
シャルルはやっぱり逃げられないか、とため息を一つ。酒に酔い、眠ってしまったソティとアーサーは、あの後のことを知らない。
どうしたものか、と思案すれば、エリーは
「何かあったのね」
と目を細めた。こういう時の姉の勘は、シャルルの騎士団長としての勘に相当するもので、ごまかせないとシャルルは知っている。
「そうだな……。誰かさんに、作戦変更を余儀なくされてしまってね。姉さんを失望させることになりそうだ」
冗談半分でチラリとアーサーへ視線を送れば、
「何!? まさかの兄弟で三角関係!?」
とエリーはアーサーを問い詰める。
「はぁ!? 何のことだ」
「とぼけないでちょうだい! 兄さんが気に入るなんてどんな子?」
ああなってしまっては、誰もエリーを止められない。恋愛のこととなると、ソティに似て、ずいぶんと熱心になってしまうのだ。
これでおあいこだ、とシャルルはエリーの興味が兄へとそれたのをいいことに寝室へ戻り、ソティも何を察したか
「あらあら。アーサー、お酒に飲まれてはダメよ」
と微笑んだ。
シャルルの家は、珍しく遅くまで明かりがついていて――翌朝、ぐったりとしたアーサーがリビングで発見されたのは言うまでもない。




