第百四十七・五話 エリーとオレンジの香り
第九章 思い出の香り編 番外 になります。
ネタバレはありません。
本編で語られなかった空白の時間を書いていますので、本編と合わせてぜひお楽しみください♪
(今回の第百四十七・五話は、第百四十七話と第百四十八話の間のお話になります。)
「エリー。君に手紙だ」
エリー、と呼ばれた女性はダークブロンドの髪を揺らして夫の方へと振り向いた。美しいブルーの瞳は、父親譲り。兄のアーサーと、弟のシャルルともお揃いである。
「弟さんからだよ」
夫の言葉に、エリーは、何かしらと首をかしげた。
エリーが東の国の貴族――つまり、今の夫のもとへと嫁いで十年。その間も、家族とのやり取りがなかったわけではない。だが、大抵は、父親の墓参りだったり、収穫祭であったり、そんなイベントごとの時くらいなものである。
もしかしてお母さまが、と一瞬頭をよぎったが、それなら手紙ではなく直接ここへ来るだろう。それでも、エリーは恐る恐る手紙を開いた。
『姉上
こちらでの生活は、秋の深まりを感じる美しい木々に彩られております――』
シャルルらしい書き出しに、やはり母親の身に何かあったわけではなさそうだ、と胸をなでおろす。
だが、だとしたら何の用事だろうか、とエリーは続く文字を眺める。
弟の美しい文字の並びには、姉であるエリーも惚れ惚れするほどであるが……こういう隙のなさが、弟を結婚から遠ざけているのだろうか、と余計な心配をしながら。
「お父様の香水?」
手紙の一文に目を止め、エリーは思わずすっとんきょうな声を上げた。どうして急に、そんな話が。エリーは続きを読んで、ますます首をかしげた。
頭がいいからなのか、シャルルは時折、エリーには想像もつかないようなことをする。
――お母さまの記憶を、香りで取り戻すだなんて。
「どうかしたの?」
いつの間にか、エリーの隣に腰かけ本を読んでいた夫も、エリーの声に顔を上げる。
「いいえ、なんだか弟がまた面白いことを始めたみたい」
「面白いこと? あのシャルルくんが?」
夫は、それは興味深い、とエリーに笑みを向けた。
「お母さまの記憶を、香りで取り戻してみたいんだそうよ」
エリーの説明に、夫も首をかしげる。
当たり前だ。そんな話は前代未聞。エリーとて、王国では様々な噂を聞きかじっていたし、東の国にきてその見聞をより広めたつもりではいる。だが、香りで失った記憶が戻るなど、おとぎ話にも聞いたことがない。
「エリーのお義母さまは確か……」
「えぇ、お父さまが亡くなってから、お父さまのことをすっかり忘れてしまったの。最初は、兄上も色々と試していたみたいだけど。近頃はそんな話も聞かなくなったから、もうてっきり諦めたんだと思ってたのに」
「東の国の医者も、脳のことは分からないことが多いと言っていたね」
悲しいことを思い出させてしまったな、と夫がエリーの髪を優しくなでつければ、エリーは気にしていない、と首を横に振った。
「香りで、記憶って戻るのかしら」
「まさか。そんな話は聞いたことがない」
エリーの質問に、夫はあっけらかんと笑う。東の国でも、そういう話はないようだった。
「お父さまの香水を、再現すれば、もしかすればって書いてある」
シャルルのことだから、まさかなんの算段もなく、というわけではなさそうだ。
「お義父さまの香水?」
「えぇ、お父さまはよく、オレンジの香りをつけてたの」
あれは確か、まだエリーが小さなころのことである。
建築家として名を上げた父親は、とにかく忙しそうだった。毎日、寝る間も惜しんで設計図を書き、工事が始まれば家には帰らない日も多かった。国中のいろんなところを旅してまわって、帰ってくるたびにお土産をくれた。
父親がいない寂しさはあったが、その分、家にいる間はたくさんの愛情をかけてもらっていたし、父が建設した貴族街の駅舎を見るだけで誇らしかったのを覚えている。
ある日、父親は、南の方から帰ってきて、嬉しそうにブルーの瞳を輝かせた。
「ソティ! 君にプレゼントがあるんだ!」
子供たちにお土産を渡す時と同じような、弾んだ声。エリーが興味を持つのは当然で、母親と父親のそばへ寄り、それがどんなプレゼントなのだろう、と心を躍らせた。
見てくれ、と父親が出したのは美しいガラス瓶。中に揺れる琥珀色の液体が、太陽のようにまばゆく、エリーのような少女にとっては憧れの品。
「香水だ!」
エリーが声を上げれば、父親がなぜか嬉しそうに
「そうだ。それも、お姫様のつけた香水だよ!」
とそれを見せてくれた。
フタを開けると、オレンジの香りがして、その後に続く花の甘い香りが、エリーには魅力的だった。
「私もこれが欲しい!」
今思えば、なんと困った子供なのだろう。だが、悪気があったわけではない。子供なら当然の反応だった。
母親は、それなら、とプレゼントを断ったが、父親はどうしても母親に渡したかったようである。父親には申し訳ないことをしたな、とエリーは苦笑した。結局のところ、そういう事情があって、香水は父親が使うことになったのだから。
「へぇ、そんなことが」
君らしいね、と夫は笑い、くしゃくしゃとエリーの頭を撫でる。
「香水が完成したら……私にも送ってもらえたりしないかしら」
「頼んでみたら?」
「そうね。そうする」
ふわりと、オレンジの香りがした気がして、エリーはふ、と目を細めた。
懐かしい記憶の片隅に、父親の気配。
「シャルルのことだから、本当に取り戻せるかもしれないわね」
エリーが呟けば、隣にいた夫も小さく笑った。




