第二十八・五話 優しい夢
第二章 ガーデン・パレス編 番外 になります。
ネタバレはありません。
本編で語られなかった空白の時間を書いていますので、本編と合わせてぜひお楽しみください♪
(今回の第二十八・五話は、第二十八話の補足的な……マリアに視点を寄せたものになります。)
マリアはその日、朝からぼんやりとしていた。
「風邪かしら……」
最近は少し忙しかったから、とマリアはガーデン・パレスでの日々を思い返す。
(リンネちゃんは、元気かな)
最後の日、泣きじゃくる彼女の姿に、マリアの胸もいっぱいになったものである。まだ数日しかたっていないというのに、寂しさが募る。
(チェリーブロッサムの香りは、気に入ってもらえたかしら……)
マリアはただの調香師だ。当然、王妃様に謁見することなど、夢のまた夢。だが、調香師たるもの、自らの作った香りでお客様を幸せにすることができたのかどうか、不安になってしまうのも当然のこと。
「いい出来、だった、と思うんだけど……」
自分でいうのもなんだが、マリアとしても自信の持てる香りだったと思う。だが、それももう数日とたつと、その香りを思い出すことは難しい。特に、風邪気味のぼんやりとした頭では、記憶もおぼつかない。
マリアは、少しでも何か体に入れなければ、とスープを作ろうと鍋をとり――
ガシャン!
その鍋が、マリアの手を滑り落ちて床へと転がっていく。
「あ……」
拾い上げようとした直後のことである。階下から、扉をドンドンとたたく音。
「マリア! 中にいるのか!」
マリアを呼ぶその聞き覚えのある声に、マリアは顔を上げた。マリアはだんだんと重くなっていく体を引きずりながら、店の方へと降りていく。
「マリア!」
マリアがゆっくりと扉を開けると、そこにはもうすっかり見慣れた人物が。
「ケイ、さん……?」
マリアの意識は、そこで途切れてしまった。
ふわふわとした感覚が、マリアの体を心地よく包む。いつしかそれは、柔らかな布団に包まれるようなものに変わり、なじみのあるほんのりと甘い花の香りがマリアの鼻をくすぐる。
先日取り出したライラックの精油。それが祖母を思い起こさせた。
(おばあ、ちゃん……)
今はもう、会えない祖母の顔がうっすらと浮かんでは消えた。
◇◇◇
マリアの目の前に、祖母が立っている。穏やかな表情を浮かべた祖母に、マリアは駆け寄った。
「おばあちゃん!」
祖母はマリアのことが見えていないようで、マリアに視線を向けることも、マリアの声に返事をすることもない。
だが、マリアは祖母へと話しかける。
「おばあちゃんの好きな、ライラックの香りを取り出せるようになったの」
祖母は振り返らない。
「チェリーブロッサムの香りも作ったのよ!」
チェリーブロッサムはね、とマリアが祖母に一生懸命に話しかけるも、祖母からの返事はない。
寂しさは募るが、祖母に会えただけでも、マリアはうれしかった。
「おばあちゃん、あのね……」
ガーデン・パレスに行く前の出来事や、ガーデン・パレスでの出来事をマリアは祖母に語りかける。
ライラックの香りだけが、二人を包んでいた。
マリアがすべてを話し終えたとき、はじめて祖母がマリアの方へ視線を向けた。そして、ゆっくりとその口を開く。
「マリア。忘れてはいけないよ。香りは、人の記憶と密接につながっている。調香師は、時を売るお仕事だからね」
祖母は優しく微笑んで、それからそっとマリアに笑いかけた。
「さ、そろそろお別れの時間だね。マリアを待っている人がいるみたいよ」
◇◇◇
ライラックの香りが、優しいスープの香りに変わり……マリアは夢から覚めた。
「ケイ、さん……?」
マリアは現実と夢の間をさまよい、何度か瞬きをした。祖母の夢を見ていたような気がするが、もやがかかっているようだ。
「少し食べられるか?」
ケイの問いに、マリアは夢心地のままに小さくうなずく。夢を見ているのか、ケイのいつもよりも穏やかな雰囲気がそうさせているのか、ケイの優しいまなざしが祖母の瞳に重なる。
マリアは夢心地で差し出されたスプーンに口をつけ、
「おいしい」
と頬を緩めた。
これも夢だと思っていたが……そうでないことに気づいたのは、マリアも随分と後になってからのことだった。




