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マギクラフト・マイスター  作者: 秋ぎつね
08 統一党暗躍篇
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08-08 逃避行

 時間は少し戻って、エルザとミーネの失踪が発覚した前の晩。地方都市イカサナートのホテルの1室で。

「…………」

 自分の部屋に戻ったエルザは声を出さずに泣いていた。

 アイゼン侯爵は知っている。領地が隣で、父の上官でもあったためときどきやって来ていたのだ。

 髪の毛がない頭に小太りの体形。退役する前は引き締まった身体だったと言うが、エルザには想像できなかった。

 以前、ビーナがクズマ伯爵に求婚された時に、当のビーナから仁との結婚をどう思うかと聞かれた事があった。

 その時エルザは、仁は好きだが、結婚していっしょに暮らすと言うことは考えられない、と思ったことを思い出す。

「でも、あのひとは」

 嫌だった。侯爵とは一緒にいるのさえ嫌だった。そんな人の妻となるなんてもっと嫌だった。見つめられただけで悪寒が走る。エルザは唇を噛みしめ、ただ涙を流す事しかできなかった。

 しかし、貴族の家に生まれた娘として、父親の命令には従わなければならない。まして、家のためになる縁談であれば、周囲は皆喜ぶだろう。ただ一人、当のエルザ以外は。

 その時、ドアがノックされた。

「……」

 エルザが返事をしないでいると、ドアがそっと開けられ、ミーネが入って来た。

「お嬢様」

「……」

 それでも返事をしないエルザに、

「何も言わなくていいですよ。侯爵との結婚がお嫌なのですね?」

 と言うミーネ。エルザは思わずミーネの顔を見てしまった。

「わかっていますよ。赤ちゃんの時から見ていたお嬢様ですからね」

 ミーネは優しく微笑み、エルザの頭をそっと優しくかき抱いた。

「ミーネ……」

 とうとう感情を抑えられなくなったエルザがミーネの名を呼ぶ。それと同時に再び涙が溢れ、

「ミーネ、ミーネ……」

 エルザはミーネの胸に抱かれたまましばらく泣き続けたのだった。


 エルザが少し落ちついたのを見計らって、ミーネが口を開いた。

「お嬢様、ここに2つの道があります。1つは、貴族女性としてこのまま言われたとおりに侯爵に嫁ぐ道。もう1つは、貴族の地位を捨てて、自分で決める自由を得るという道です」

「自分で、決める、自由?」

 その響きにエルザは顔を上げた。

「ええ。私ども庶民は、貴族よりも決まり事は少ないのです。その分、苦労することもありますが、押しつけられた苦労と、自ら選んだ苦労。一概にどちらがいいとは言えないでしょうが、どうせなら自分で選んだ苦労の方がいいと思いませんか?」


*   *   *


 ミーネの誘惑は時を得ていた。

 実は、自分の出身地に近いこの都市に来る日を待ち、密かにいろいろと準備をしてきていたのだ。エルザを攫うために。

 だがエルザ自身の意志で抜け出せたなら、ミーネにとってはこれ以上望めない幸運と言って良かった。

 詭弁を、策略を弄して、ミーネはエルザをその気にさせようとしていた。


*   *   *


「自分で、きめる、自由」

 もう一度エルザは繰り返した。

「ラインハルト様とはもう会えなくなるかもしれません。あの方は貴族ですから。でもジン様は庶民です。1、2年してほとぼりが冷めたら会う事も出来るかもしれません」

 ミーネはそう付け加えた。巧妙といってもいいかも知れない。エルザが仁のことを気に掛けている、いや慕っているらしき感情をうまく刺激したのである。

「ジン君なら、きっと……」

 仁と会えたなら、仁なら、自分をうまくラインハルトとも会わせてくれるかもしれない。そんな希望をも抱くエルザ。

 そしていつしかエルザはミーネに肯いていた。


「行く」

 それだけ言ったエルザをミーネはもう一度抱きしめ、

「お嬢様! 良く決心しましたね。ミーネは命に替えてもお嬢様をお守りいたします」

 そう言ってエルザの背を撫でた。


*   *   *


 その夜、2人は姿を消したのである。

 ミーネが密かに準備した庶民の服を身に着け、裏口から、こっそりと。

 まさかエルザが逃げ出すとは誰も思わないから、見張りらしい見張りはいなかった。

 警備の兵士はいたが、ずっと張り付いているわけではなく定期的に巡回するだけであったので、いない時を見計らって逃げ出すのは難しいことではなかったのだ。

 一目で貴族とわかるようなアクセサリーや嵩張るもの、余計な荷物は全部置いてきた。短剣や指輪も。

 指輪は外していたので気が付いた時にはもう取りに戻れる状況ではなかった。仁に貰った事を知っていたミーネが敢えてそういう状況にした、というのが真相であるが。

(でも、これだけは)

 誕生日に仁から貰ったブローチだけはこっそりと胸ポケットに忍ばせたエルザであった。

 短剣も持っていきたかったエルザは少し後ろ髪を引かれながらも、ミーネの手に引かれて夜の闇に向かって歩いて行ったのである。

 その姿を見ていたのは隠密機動部隊(SP)のパンセとリリーだけ。だが仁に関係はないと、そのまま何もせず見送ったのである。


*   *   *


 乳母として貰った給金の大半をこの日のために蓄えていたミーネは、当面のお金の心配はしなくてもいいとエルザに言い聞かせ、ほとんど着の身着のままで脱出した。

 ミーネの実家はイカサナートの隣、ササド町にある。かなり裕福な商人であるが、真っ先に調べられるだろうから、頼るつもりはない。

 闇の中、ミーネは雇った『便利屋』の所へ行く。往路で既に渡りを付けてあり、そういう意味では予定通りの行動であった。

「こりゃあようこそ。で、そちらが例のお嬢さんで?」

「そうよ。今夜連れ出してきたの。予定通りに頼むわ」

「わかってますって」

 元々イカサナートでエルザを攫うつもりだったミーネは、脱出の手筈は既に整えていたのである。

「まあ、今夜はもう時間もあまりない。明日の夜までここにいてくんな。なあに、絶対に見つかりゃしねえから安心してくれ」

 便利屋はそう言ってエルザとミーネをベッドのある部屋へと案内した。中からちゃんと鍵もかけられる部屋だ。2人は精神的に疲れていたのですぐに眠ってしまった。

 翌日は夕暮れを待って行動に入る。その時間の長かったこと。便利屋の隠れ家を出た時は2人とも憔悴しきった顔をしていた。

 まず、馬を使って北東へ。

 イカサナート経由以外にも、セルロア王国に入る方法はある。まあ、そのほとんどは非合法であるが。

 山の中に付けられた細道は、セルロア王国からエゲレア王国へ、またその逆に行き来する裏家業の者達が利用する道で、エルザとミーネはその道を馬に乗り進んでいった。

 踏み跡程度の細い道が延々と続く山中。稜線が国境線になっており、所々に境界を示す杭が打たれている。この杭は魔導具で、杭と杭の間を人間が横切ると警報が発せられるというものであった。

 そのため製法は秘匿されている。まあ仁が見れば簡単に構造を解析してしまうであろうが。

「朝までここで休んでくんな」

 その国境線に近い場所に小さな小屋があった。『便利屋』がこういう時に使うための拠点である。

 夜中馬で暗闇を進んできたエルザとミーネは疲れ切っており、言われるがまま、渡された毛布に身を包んだのである。


「……おいしくない」

「もう少しだけ我慢して下さい、お嬢様」

 便利屋が用意していたパンとスープで空腹を満たす2人。当然味は論外で、エルザもつい不満を口にしてしまう。

 この日の手順は、『通し屋』がこじ開けた国境線をくぐり抜けてセルロア王国側に入り、トーレス川を望む高台にある小屋で夜を待つことだった。

 『通し屋』というのは中年の魔導士で、魔導具の助けを借りて杭と杭の間隔が広い場所に一種のトンネルを構築するというもの。

 そのトンネルをくぐれば杭も警報を発せず、エルザとミーネは無事国境を越えることが出来たのである。

「さて、あとは山を下りて川に出、『渡し屋』に頼んで川を渡ればセルロア王国副中心街だ、ちょっとやそっとじゃ追っ手に捕まることもないだろ」

 一緒に来た便利屋が2人にそう言って、トーレス川を望む高台にある小屋へと2人を案内した。

「夜までここでじっとしていてくんな」

 そう言って便利屋は出ていった。残ったエルザとミーネは顔を見合わせる。

「お嬢様、もう少しです。川を渡れれば、もう追っ手にびくびくする必要もありません。家を借りて2人で暮らしましょう」

「うん」

 移動で疲れたようなエルザをミーネは優しく抱きしめる。そのままエルザは眠ってしまった。ミーネはそんなエルザの寝顔を眺め、

「可愛い子。あなたは私が何としてでも守りますよ」

 と言って、額に掛かった髪の毛を優しく指で梳き上げるミーネであった。


 外は次第に暗くなり、やがて待望の夜がやってくる。


「さあ、行きますぜ」

 便利屋の声がし、小屋の扉が開いた。外は既に真っ暗である。

「足元に気をつけな」

 そう言われても、月明かりだけではなかなかに難しい。何度か転び掛けながらエルザとミーネは川原へ降り立った。

 そこには一艘の小船が。

「あれが『渡し屋』だ」

 船に乗った人影がちょいと頭を下げた。

「ありがとう、ご苦労でした」

 ミーネはそう言って便利屋の手に金貨の入った袋を握らせた。

「へへ、そんじゃあ、お元気で」

 袋の口を開けて中身を確かめた便利屋は愛想笑いをして闇へと消えた。

「さあ、お嬢様」

 ミーネはエルザの手を引いて船へと乗り込む。5人乗りの小船だ。

 まずはエルザを船へ。渡し屋が手を貸し、エルザは危なげなく乗り込んだ。

 そしてミーネが乗り込むと、船はすぐに岸を離れ、対岸目指して進み出した。渡し屋は『櫂』のような物で船を進ませていた。

「これであとは向こう岸に着くのを待つだけです」

 大きく息を吐いたミーネは、心配そうなエルザの肩を優しく抱いてそう言った。

 この世界の月は小さい。それでも川面は月明かりでちらちらと無数の光を反射して、銀の砂を撒いたよう。エルザはぼんやりとそれを眺めていた。

 小船はゆっくりと川を渡っていった。

 ミーネとエルザの逃避行でした。


 精神的に弱っている所へ甘い囁き。

 道が2つ、というのも策略ですね。父親を説得するという道や断るという道だってあります(険しいですが)し、もっと相応しい相手を見つけるという手だってあります。


 お読みいただきありがとうございます。


 20130817 12時50分  誤記修正

(誤)『渡し屋』の頼んで川を渡ればセルロア王国中心街だ

(正)『渡し屋』に頼んで川を渡ればセルロア王国副中心街だ


 中心街ではないです、副中心街でした。申し訳無いことでした。



 20130818 15時10分

 2人が失踪してからの時系列に矛盾がありました。具体的には4日夜失踪、5日国境へ移動、6日夜ミーネ負傷なのですが、今のままですと1日空白が出来てしまいます。

 そこでプロットに会わせ、4日夜は時間が無いので便利屋の隠れ家に匿われ、5日夜に国境へ移動した旨を明記しました。


 混乱・ご迷惑をおかけしました。


20170829 修正

(誤)イサカナート

(正)イカサナート

 4箇所修正 orz


 20171126 修正

(誤)時間は少し戻って、エルザとミーネが失踪が発覚した前の晩。

(正)時間は少し戻って、エルザとミーネの失踪が発覚した前の晩。


 20220613 修正

(誤)警備の兵士はいたが、ずっと貼り付いているわけではなく定期的に巡回するだけであったので、

(正)警備の兵士はいたが、ずっと張り付いているわけではなく定期的に巡回するだけであったので、

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― 新着の感想 ―
護衛対象でなくても関係者が不審な行動をしていたら報告はしそうなものですが、そのあたりはゴーレム故にまだ融通が利かなかったとか。 危険度を基準にしてレベル分けをしていたのなら、同行者がどこかへ行くという…
[一言] 『何度目かの読み返しの最中です』 当時はミーネの精神状態が異常だと知らないまま読んでいたので、エルザとの逃避行もアリかな?と思いながら読んでいましたよ。  もちろん貴族令嬢が市井で暮らす…
[気になる点] ずっと貼り付いているわけではなく ずっと張り付いているわけではなく
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