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マダガスカルまだ助かる⑪

インド洋:ダーバン沖



「よしよし、おいでなすったな」


 潜水艦U-168の艦長たるピッチ大尉は、潜望鏡に映った敵影を見て微笑む。

 明らかに英国海軍のネルソン級戦艦であった。米英軍がマダガスカル上陸に失敗し、主力艦複数を含む多くの艦艇を喪失したらしいことは、朧気ながら把握できている。とすればその生き残りに違いなく、10ノット弱という亀の如き速力からして、かなりの深手を負っているものと思われた。


 なお護衛はというと、駆逐艦2隻が随伴しているばかり。

 しかもそれらは前の大戦の末頃に建造された、相当に年老いた艦のようだった。水測機器や対潜兵装の更新によって侮れぬ存在となっている可能性も高いが、襲撃を断念せざるを得ぬほどの脅威ではあるまい。


「食いますか?」


「無論だ」


 ピッチは意を決する。


「魚雷戦用意。残弾は4発しかないが、景気よく全部ぶっ放し、最大深度まで潜航としゃれ込もう」


「了解。魚雷戦用意」


 U-168は戦闘艦としての本能を急速に研ぎ澄ます。

 それから数ノットで小まめに転針し、息を殺して海中に潜伏する。目標が舵を切るなどしなければ、艦首の前方900メートルに無防備な腹を晒すはずであった。


 そして再び海面に潜望鏡を上げた時、ネルソン級戦艦は予想通りの位置にあった。

 護衛の駆逐艦は2隻とも、まるでこちらに気付いた様子はない。好機到来とはこのことだろう。


「1番から4番、撃て」


 発令と同時に圧搾空気が魚雷を押し出した。

 目標に向かって真っすぐに駛走したのを認めると、すぐさま急速潜航を命じる。戦果はほぼ確実、ならば今は生存を優先するのみ。U-168は海水をがぶ飲みし、一気に深度を下げていく。


 ただ意外だったのは、想定より幾分早く轟音が聞こえてきたことだろう。

 幾度と死線を潜り抜けてきた男達が、思わず顔を見合わせる。それから僅かな時間経過の後、本来の時刻が到来し、再び強烈なる爆発音が響いてきた。


「なるほど……」


 その意味するところを察し、ピッチは思わず唸る。


「英海軍が駆逐艦乗りの勇気と献身、まことに見事」





ロンドン:首相官邸



 未だどうにか務めを果たしているチャーチル首相は、普段通り午睡の時間を楽しんでいた。

 微睡みの中での彼は、第二次ボーア戦争に馳せ参じたる若き騎兵中尉だった。悪辣なる敵を相手に大立ち回りを演じ、バッタバッタと斬りまくる。かつて自分も捕われていたプレトリアの収容所に突入し、仲間を解放しユニオンジャックを掲げる。何もかもが懐かしく、大変に心地のよい夢だった。


 だがそれは長続きしなかった。世界大戦という現実に叩き起こされたのだ。

 執務室には軍事首席補佐官たるイスメイ陸軍大将の姿があり、チャーチルは心底がっかりした。この人物が昼寝の時間を邪魔してくるのは、ろくでもなく深刻な報告がある時だけだからである。


「それで、またなのかね?」


「はい、またです。閣下、申し訳ございません」


 イスメイもまた項垂れ気味に詫び、


「大英帝国首相として心に留めておいていただかねばならぬものが、2件ほどございます。片方はとてつもなく悪い話で、もう一方は信じ難く悪い話です」


「……では、前者から聞こうか」


「はい。避退中であった戦艦『ロドネー』がUボートの襲撃を受けて被雷、辛うじてダーバンまでは持ちはしたものの、港湾の入り口で座礁転覆いたしました」


「おお、何ということだ……」


 チャーチルは思わず目元を押さえ、掠れ切った声で呻く。

 植民地人の戦艦とともに決戦に臨んだ『ネルソン』は、イタリヤの田舎艦隊如きに敗れて沈没し、更にはその妹分までもが使い物にならなくなったのだ。砲戦力では海軍随一であった2隻を悉く喪失したという陰惨に過ぎる現実に、意識があっという間に遠のいてしまいそうになる。


 だがそれを阻止したのは、国王陛下が忠臣としての義務感であった。

 戦争の指導者ならば、どれほどの悲報をも受け止めねばならない。チャーチルは机上にあったカップをおもむろに取り、熱を失ってしまったそれを啜る。底の方で沈殿した砂糖と秘薬の混合物が、彼の舌を変な具合に刺激しはしたが、一応は崩れかけた精神を励起せしめる効用は残っていた。


「それで、もう一方は信じ難く悪い話ということだが……」


 チャーチルは口ごもるも、覚悟を決める。


「いったいそれは、どんな内容なのだね?」


「南アフリカのスマッツ政権が、吹き飛びました。文字通りに」


「は……?」


「ですから閣下、南アフリカのスマッツ首相一行が何者かによって爆殺されたのです。更には統一党の議員複数名が行方不明になったとのことで、恐らく全部が忌まわしきナチどもか性根の腐り切ったボーア人の仕業でしょう。ただ何より厄介なのが、南アフリカが如何ともし難い政治的混乱に見舞われそうな点です」


 イスメイはそう断じ、すかさず鞄から資料を取り出す。

 今年7月に行われた総選挙に関するものだった。戦争継続の是非を争点に争われたそれは、少数与党となった統一党と親英的な自治領党の連立でもって、辛うじて野党第一党たる国民党を数議席差で抑えたという結果に終わった。幾つかの裏工作をロンドンが手引きしたことは言うまでもない。


「現在、南アフリカ議会の均衡は崩れてしまっております。このままですと国民党のマランが次期首相として担ぎ出される可能性があり、その場合あやつめは戦争あるいは英連邦からの離脱を主張する可能性が高く、悪ければ枢軸加盟などと言い出しかねません。それ故に一刻も早い戒厳措置が……ええと、閣下?」


 イスメイは本当に心配そうに伺ったが、チャーチルは完璧に硬直していた。

 あまりにも居心地の悪い沈黙が流れる。それが数十秒ほど継続した後、大英帝国首相たる人物の身体がブルブルと震わせる。


「ああああああ!」


 紳士としての美徳をかなぐり捨てたような獣的絶叫が、ダウニング街10番地に木霊する。

 それから鼻の曲がりそうな悪臭が、情けない音を伴って、執務室にゆっくりと充満し始めた。戦時宰相として大英帝国を支え続けてきたチャーチルの脳が、一時的ながら自我の崩壊を選択してしまった結果である。





東京:上野動物園



 昭和18年10月中旬。豪州北岸で捕まえたワラビーのワラジは、すっかり動物園の人気者となっていた。

 流石に『天鷹』では手に負えぬと判断されたからである。そもそも軍艦内にやたらと動物を飼育していたこと自体、かなりおかしな話ではあるのだが……まあ食中毒空母だから仕方ない、そんな陰口を叩かれまくるだけのことはあった。


「ほれほれ、元気にしておったか」


 好物のニンジンをやりながら、博田大尉はニッコリする。

 暫くマダガスカル島で戦った後に内地へと帰還し、諸々の用事があって東京までやってきた彼は、敵空母撃沈の功労者という栄誉もあって上機嫌。都合よく戦果だけは『飛鷹』に横取りされてしまいはしたが、細かいことは気にしないのだ。


 なお一方のワラジだが、餌をペロリと平らげるや、ピョンピョンと跳んでいってしまう。

 その先にいたのは、同じく野菜を手にした諏訪少佐。赤道の遥か向こう側で激戦を繰り広げてきた航空士官の、ちょっとした休養のひと時という訳で、まったく現金な有袋類だとの笑い声が重なった。


「ところでこのワラジ君、かなり戦略的影響を及ぼしたようなんですね」


 諏訪は唐突に真面目な話をし、


「何でも写真をスイス経由で流してやったら、何時の間にやら豪州北岸が危ないって話にまでなって……米英が無理してその辺に兵隊を展開させたり、アデレードとダーウィンを繋ぐ縦貫鉄道の建設を約束する破目になったとか」


「ほお、それはまた不思議な」


「ついでにそっちの負担が割と大きくて、南太平洋での反攻が若干遅れるという見込みまであるんですね。まあこれは希望的観測って呼ぶ奴かもしれませんけど、豪州にインド、南アフリカと軒並み混乱状態なので、英国の脱落も現実味を帯びている面も出てきていますからね」


「なるほど」


 取り留めなく話しながら、ワラジへの給餌作業を継続する。

 戦略的に大それた話になっていても、有袋類にそんなことが分かるはずもない。相も変わらず自由気ままに跳ね回るそれを見ていると、今後熾烈さを増していきそうな戦局も、競馬でろくでもない大負けをしたことも、あまり気にならなくなるものだ。


「あ、ところで少佐、聞き忘れておったのですが」


「うん、何かな?」


「何故マダガスカルで、自分が空母撃沈に全財産を賭けるなんて話になったのでしょう? 流石の自分としても、そんな約束をした覚えはからきしないのですが」


「ああ、それですかね」


 諏訪は顔を楽しげに綻ばせ、


「博田大尉は借金塗れなので、そもそも全財産がマイナスだと踏んだんですね。賭けに勝てば相手の分を奪え、負けたら抱えている負債を相手に押し付けられる。であればどうあっても得しかしないでしょう」


「あ、なるほど。これはまた一本取られました」


 財産の状況に関してはまったくの図星だった。

 それから負の掛け金という発想にも驚かされる。時間切れなどと言わず、あの宮本とかいう大尉を乗せてくれていたら、結構な儲けが出たのではないかと思えてならない。


「まあ、戦争もこんな具合に構えられたら楽かもしれませんけどね」


「いったいどんな戦争な訳ですか」


 博田はカラッと笑いつつ、再び寄ってきたワラジの頭を撫でてやる。

 負けが込んでくれば本土への爆撃が本格化し、守るべき大勢が犠牲となってしまう。米英軍による空襲を受けているベルリン動物園の例を見れば分かるように、飼われている動物だって同じだ。ともかくも次の作戦に向けて鋭気を養うべし。そうした想いを胸に、賭場で度胸付けだと思っていたら、ワラジに指を噛まれてしまった。

次回は3月19日の18時頃に更新の予定です。


割と長くなってしまったマダガスカル攻防はこれにて完結、そろそろ『天鷹』が戻ってきそうな気配です。

史実の1943年と1948年の南アフリカの総選挙について調べてみていると、インド洋や北アフリカの戦局次第で南アフリカ国民党が史実以上に議席を獲得、ここも英国の頭痛の種となるという展開もあり得るのでは? と考えて書いてみました。その結果……チ首相がこれまた大変なことに。

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― 新着の感想 ―
[一言] こりゃひどいただでさえ今までの戦いで毛根が消し飛んでるのに米空母、戦艦の全滅そしてネルソン級の戦闘不可もしくは撃沈とかいう特大イベント発生その後に南アフリカが消し飛ぶなんて誰だって発狂する …
[良い点] 第2次世界大戦の戦記ではあんまり扱われない南アフリカについて、ちゃんと戦略上の理由付きで触れられている [一言] 戦時首相脱糞シリーズ、後世でネタにされるんだろうなあ
[良い点] 前にさらっと書いていた豪州大混乱の事と 仮想戦記だとあまり触れられない南アフリカの事について書かれている。 [一言] 一般英国人脱○シリーズは草 次は一般米国人○糞シリーズですね!
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