クレムリン搦手作戦
モスクワ:クレムリン宮殿
「つまり米英は、またも約束を反故にするというのですね?」
ソ連邦の赤き皇帝たるスターリン書記長は、ほとほと呆れ果てたとばかりに尋ねる。
口ぶりは丁寧だが、双眸は剣呑な具合にぎらついている。下手なことを言おうものなら即座に銃殺やシベリヤ送りであるから、強烈な緊張感と疑心暗鬼が会議室に充満している。とはいえ同盟国への不信だけは、列席した全員が持ち合わせていた。
「何百個師団というナチの大軍勢を母なる祖国の大地において食い止めているのは、他でもない我等がソヴィエト連邦であるはずです。田畑を荒らされ家々が焼かれ、何百万という無辜の人民が殺戮される中にあっても、悪辣なるファシストどもに対する勝利を信じ、勇敢なる赤軍将兵は戦っているのです。だというのに彼等は一向に第二戦線を開こうともせず、挙句の果てに支援物資の量すら減らそうとする。同志モロトフ、いったい何故なのですか?」
「同志スターリン、まことに遺憾ではございますが……」
モロトフ外相は恐縮して続け、
「彼等はモロッコに上陸し、アトラス山脈の麓でロンメル軍団と戦っておるのを、第二戦線と信じて疑っておらぬようです」
「しかもその挙句に敗退する始末」
参謀総長のジューコフ元帥は腹立たしげに吐き捨てる。
事実、モロッコに上陸した米英軍は先週、散々な敗北を喫していた。地上部隊はアルジェリアまで一気に東進し、地中海岸から揚陸する海兵隊との合流を目指したが……前者はロンメル将軍の巧みなる罠によって撃滅され、後者は新鋭戦艦を投じたイタリヤ海軍部隊によって戦車揚陸艦の半数が沈むほどの損害を受けてしまっていた。
「正直なところ、暫くは期待薄と考えた方がよいでしょう」
「まったく……資本主義者らしい吝嗇が招いた結果と言えませんね」
スターリンは暗澹たる溜息をつく。
それからウォッカをグビリと飲み、自家製レモンを絞ったキャビアを幾らか摘まむ。このところの米英の首脳には、卒倒だの失禁だのという妙な流言が何かと付きまとっているが、ソ連邦の場合は脳溢血となりそうである。
「それで同志モロトフ、支援物資がやたらと少なくなっている件については、何かありますか?」
「同志スターリン、こちらも大変遺憾ながら、今後1年ほど抜本的解決は見込めぬようです」
モロトフの言葉を受け、苛立たしげな呻きが異口同音に木霊する。
「我々が対独単独講和を選んだ場合に困るのは米英ですから、すぐに大部隊でもってノルウェー海の制海権を奪取し、是が非でも補給船団を送るべし。両国大使には再三にわたってそう要求してはおりますが、米国は先の本土空襲で艦隊戦力の大部分を西海岸に集め出しており、英国も北極海で手痛い損害を受けた影響で及び腰。とすると正直なところ望み薄としか評しようがなく……しかもアラスカ沖で輸送船が片っ端から沈められたとかで、太平洋航路用の貨物船もまともに寄越しません」
「おまけにアンカレッジに集積していた物資は、敵機動部隊によって輸送機ごと焼き払われた……とアメ公どもは申しております。アラスカ・シベリア空路に関しても当面は絶望的です」
クズネツォフ海軍人民委員がそう付け加え、
「なおカナダ北極諸島からレナ川までの氷海を打通するというどうかした案については……一応、砕氷船らしきものは建造しているようですが、机上の空論の域を脱したとは到底考え難いかと」
「ところで同志モロトフ、対独単独講和などというのは聞き捨てなりませんね」
スターリンは大層不愉快そうにそう言い、
「確かに外交には脅し文句は必要でしょうが……ただ話を聞くに、八方塞がりと言われている気分となります」
刃物の如く鋭利な視線が投げつけられる。
明確なる返答は暫しなく、沈黙の間に現在の対独戦線が想起される。バクー油田の陥落だけは辛うじて食い止めているものの、ロシア中央部への陸路油送が封じられ、カスピ海にも航空機や魚雷艇が出没する始末だ。北方では包囲下のレニングラードに対する攻勢が始まっており、更にムルマンスク鉄道の一部路線が敵野戦砲の脅威に晒されるなど、今度こそ拙いこととなるかもしれぬとの懸念が広がっていた。
無論、枢軸軍がほぼ攻勢限界に達していることは分かっている。
ただそれに対する反撃が、物資や燃料がままならぬが故、実施されぬままとなっていた。重工業傾斜生産と根こそぎ動員のお陰で何とか兵器と将兵は揃っているが、それ以外の品目の不足は深刻という他なく、下手をすると裸足で行軍することとなる兵隊が出ると言われたほどだった。そんな状況でまともな運動戦など期するべくもなく、死神の列となって荒野を駆けるドイツ機甲師団の前に、ただただ亡骸ばかりが積み上がっているのである。
そして人的損害の規模については、既に1200万という驚愕の数値を記録していた。欧州での勝利が得られるとしても、暫くは国力の回復に専念せねばならぬだろう。
「ええと……同志モロトフ?」
「同志スターリン、現状を脱する案の中で現実的なものは、1つは存在しております」
モロトフは唾を呑み込んで断じた。
「我々がまず欧州ファシスト勢力の打倒に専念し、東アジア地域における社会主義政権の樹立のような方針の幾つかを繰り延べさせることに同意いただけるのであれば……道も啓けるやもしれません」
「ふむ、続けてください」
「はい、同志スターリン。つまりは日本と米英の講和を斡旋し、もって枢軸から脱落あるいは連合へと鞍替えせしめ、太平洋航路の安定化およびペルシヤ経由の補給路の復活を図るのです。このところの活発な日独交流とは裏腹に、両国政府首脳の間には隙間風が吹きつつあるようですから、見込みも十分以上にありましょう」
大湊:料亭
「いやはや、遂に年貢の納め時という訳ですか」
元同僚のめでたき話に、抜山主計少佐は屈託ない喜色を露わにする。
例によって遅れて店にやってきた鳴門少佐は、それに対して照れ臭そうな、また満更でもなさそうな表情で応じた。ともかくも惚気話などしていると、酒や肴が美味くてたまらなくなるので、あれこれと注文が増えてしまう。
「どういった訳か休みの間中、デッサンに使うからと妙な姿勢をさせられましたが」
「なかなか素晴らしいセンスをお持ちの方なのですな」
抜山はウニの寿司をペロリと食べながら笑い、
「して、式は既に挙げられたので?」
「次の務めから戻った辺りで挙げようかと」
「おやおやおや」
意外なことだと抜山は思い、
「主計科の自分が言うのも幾分妙な話ですが、軍人とは明日をも知れぬ身。善は急げと言うものでは? またボロ船を使って体当たり掃海をやれとか命令が下るかもしれませんし」
「あれは正直もう勘弁願いたいですが、どうにも妙な話でしてね」
鳴門もまた首を傾げ、日本酒を半合ほど開けながら、あれこれと事情を話し始める。
朝鮮の羅津という海軍にはあまり馴染みのない土地に、中瀬大佐の随行で二か月半ほど出張するのだという。詳細については現地到着後に説明とのことで、いったい如何なる目論見であるか、現段階ではさっぱり分からぬとのことだ。
「ただロシヤ語の復習はしっかりやっておけと言われましたよ」
「第二外国語はそちらでしたっけ。僕はダーとニェット、ハラショーくらいしか知りませんが」
「近所に……といっても北海道の近所ですけど、亡命ロシヤ人の一家が引っ越してきていた関係で、子供の頃より習ってましてね。お前は露伴なんだからロシヤ語くらい喋れるようになれとか、両親に無茶苦茶言われたのが、まあ役に立ったんでしょうか」
「なるほど、そうでしたか」
屈託なく笑いつつ、抜山は幾らか考えを巡らせる。
実のところ中瀬大佐というのは、かつてモスクワの大使館で駐在武官をやっていた人物だ。大本営政府連絡会議の場で軍務局長の佐藤賢了中将が腕をカクカク振り回し、「ドイツに猛省を促す」と絶叫した。そんな妙に信憑性のある噂話と合わせて考えてみると、どうにも国家戦略的なものが見えてきそうである。
「この時世、海軍軍人にロシヤ語の需要があったというのも驚きですが、ソ連邦の要人でも出てくるんでしょうかね」
「案外、そうなるのかもしれませんよ。あるいは極秘のシベリヤ行であるとか」
「とすれば勉学も気が抜けませんね」
「本当ですな」
抜山は真っ赤な顔で朗らかに笑いつつ、一方の冴えた頭で大戦略を紐解かんとする。
北太平洋における一大作戦を発起、同方面での更なる攻勢を見せかけることをもって対ソ交渉材料とする。4月頃にそんな読みをしたものだが、小沢機動部隊による米本土攻撃もあったことだし、思いの他当たっていたのかもしれない。とすれば大陸戦線において進んでいる撃滅戦やインドでの陽動作戦などと合わせると、対連合国和平の絵が朧気ながら見えてくる気がした。
次回は2月21日 18時頃に更新の予定です。
機動部隊を用いた米本土攻撃の戦略的影響が、苦境にあるソ連邦にも及び始めます。
なお佐藤賢了中将の「ドイツに猛省を促す」という台詞ですが、腕をカクカク振り回しはしてないでしょうが、史実に元ネタがあったりします。




