複雑怪奇、北方情勢
大湊:海岸線
帝都は花も散り切った頃合いだろうが、本州は北の果てはまだまだであった。
空気もまだまだ肌寒く、ようやく雪解けの水を得た草が、野に芽を出さんとしているといった具合だ。
抜山主計少佐はそうした早春の空気の中、中学以来の友人なる岸本とともに海岸線を散歩していた。
大湊警備府にほど近い幾つかの社寺仏閣に参った後、特に目的もなく、あちこちをぼんやりと眺めて回るのである。漁労に勤しむ小舟がポツポツと浮かび、比較的小ぶりな運貨船が行き交う陸奥湾の先には、夏泊半島の小高い山々が連なっている。それなりには長閑な光景をもって精神的疲労を回復させつつ、気楽な雑談という訳だ。
「おっと……」
暢気なことを言っている傍から、バリバリと喧しい音が響いてきた。
薄い水色をした空を仰いでみると、離水を終えたばかりの零式水上偵察機の姿が見て取れた。ゆっくりと上昇しながら旋回し、北東へと向かっていく。
「ふむ、沖に潜水艦でも出たかな?」
岸本はちょいと首を傾げ、
「ハワイから日本列島に至るまで、障壁となる島はほとんどないからなあ。南雲機動部隊が真珠湾を攻めた時にはそれが役立ったとはいえ、守る側となるとまったく厄介と言う他なさそうだ」
「いや、あれは多分違うね」
憶測形にする必要がないと知っている抜山は、ちょっととぼけた口調で言う。
「中立国の船舶が通航するから、その監視に向かったとかじゃないだろうか」
「なるほど、中立国といったらソ連邦しかないか。どうなるんだろうな?」
漠然とした問いを契機として、遠き激戦地の情勢に関する話題となる。
新聞やラジオで盛んに報じられている通り、半年以上に亘った激戦の末、ドイツ軍は遂にスターリングラードを制した。既に一部の部隊はカスピ海まで到達しており、次はバクーかと囁かれている。北米のテキサス大油田に次ぐ産油量を誇る同地は、いわばソ連軍の心臓であるから、確かに今後の焦点となるだろう。
ただ人員や装備の損耗は、予想を遥かに上回ったとの噂も流れてきていた。
追加の攻勢を実施するにはもう何か月かの準備期間が必要であり、当面戦線を動かすことは難しい。一方のソ連軍の反撃もまた、バクーからアストラハンへと至る陸路を封じられ、米英からの補給も決定的なまでに滞っている状況であるから、暫くはあり得ないだろうとの見積もりだ。
「少し前に満洲で聞いた話なのだが……この機に乗じてシベリヤを攻められぬかと、関東軍が画策しているという」
岸本は声量を抑制し、
「あるいはただ開戦して、黒竜江を挟んで睨み合うだけでもよい。シベリヤや沿海州に展開している部隊が欧州に回らなければ、ドイツ軍が大いに助かるだろうし、太平洋航路が遮断された場合、ソ連邦は一切の物資や燃料を受け取れなくなる。我が国としても北樺太とカムチャッカは楽に獲れる。これをもって1年以内にスターリンを屈服せしめ、変則的なユーラシア枢軸同盟を結成、米英の勢力圏を新大陸周辺まで縮小せしめるというものだ」
「なるほど、案としては筋が通っているとは言えるかな」
「どうにも含みのある反応だな」
「少々、ドイツばかりが得をする内容だと思わざるを得ないよ」
特に中立条約を破棄しての参戦の対価が、北樺太とカムチャッカでは。抜山はそんな具合に苦笑する。
これでは余程上手い事やらない限り、スターリンは復讐戦に打って出ようとするだろう。加えてユーラシア枢軸同盟でもって米英との対決を続ける場合、ソ連邦は地政学的に見て完全な後背地となるから、国力を回復するという意味では大変に有利。そうして日独伊が疲弊した辺りで寝首を掻かれた場合、対処のしようがなくなってしまう。
「それにどうもこのところ、大本営では対独不信が高まっているみたいでね」
「初耳だな。何かあったのか?」
「アラビヤやエジプトを経由した日欧連絡線が確立されただろう?」
自分はまさにその場にあった。抜山はそう付け足す。
20世紀も半ばの科学全盛の時代に、艦長同士が斬り合うなんて事態にもなった。最近はただ飯ただ酒にありつけていないが、高谷大佐はどうしているだろうかとふと思う。
「まああれを機に独ソ和平の斡旋に向けて、外務省と陸軍が色々と動いたようなのだ。ただこれが、まさに俺が抜け策なだけかもしれないが、さっぱり続報を聞かなくてね。となれば上手くいかなかった可能性が高いだろう。それを踏まえると先の関東軍の話などは、ドイツ側の意向を真に受け過ぎていると言えるかもしれない」
「ふむ。この間、満洲の石炭液化工場にドイツ人技師の第一陣がやってきたりはしたが……現場はともかく、首脳同士ではほぼ同床異夢に陥っている可能性も高い訳か」
「我が国は確かに日ソ中立条約を維持しているが、対独貢献はかなりのものであるはずだ。ペルシヤ湾作戦の影響もあってインド洋経由の対ソ支援は完全に消滅したし、北東太平洋でも機動部隊によるアラスカ空襲や潜水艦による通商破壊戦をやっているから、ソ連の貨物船はシアトルやポートランドまで赴かねばならず、輸送効率は大幅に悪化している」
「では津軽海峡を通る船は予想より少ないのだな」
零式水上偵察機が先程向かった方を、岸本は改めて望む。
対する抜山は肯定的な沈黙を守る。中立条約違反の積荷があるとの情報から駆逐艦『帆風』がソ連船籍の貨物船『コラ』を臨検し、積載されている航空機部品を没収したという事件が起こったのは、ほんの一週間ほど前のことである。
「実を言うと、ドイツというのは極めて厄介な国だと思うよ」
ちょっとくすんだ顔をして抜山は言い、
「そもそも蒋介石に大量の軍需物資を売却し、ドイツ式に教育した軍隊でもって上海租界を襲わしめたのは、他でもないファルケンハウゼン顧問団じゃないか。その後もノモンハンで戦っている最中に独ソ不可侵をやるし、日ソ中立条約を結んだらその直後に攻め込むし、正直なところ無茶苦茶もいいところだよ」
「確かに、言われてみれば酷いもんだな。だがあちらは元々が大陸の国で、不仲な列強と国境を接し過ぎていたりもする。となればそちらの事情が最優先とならざるを得ず、結果として東亜情勢にまで配慮が回らんということもあるかもしれん」
「妙に親独的な言説だね」
「枢軸同盟の世ではあるからな。それに一緒に戦っている同士、外交態度が気に入らんからって仲違いしようものなら、米英ソに付け込まれる結果にしかならんだろう」
「その意味では……」
抜山は少しばかり記憶を辿り、情報の取捨選択を実施した。
「今後の北東太平洋の動静とソ連邦の戦略とを、もう少しばかり繋げて考えてみるといいかもしれない」
次回は1月30日 18時頃に更新の予定です。
米英による対ソ支援は極めて厄介なことになっています。
独ソ講和の斡旋という方針は史実の通りですが……例によってあまり上手くいく気配がしてこないのが困りどころでしょうか?




