上海食道楽参謀勤務①
重慶:政庁
現在最も窮地に陥っている連合国の首脳は誰かと問われたならば、大部分が蒋介石の名を挙げるだろう。
実際、戦況は最悪だった。米英からの支援があるからと重慶で抵抗を続けていたのだが、それは見事に途絶えてしまった。ビルマの全土が日本軍の支配下となった影響で、レド公路がまず寸断されている。その先の英領インドはといえば、やたらと活発化した独立運動や非服従運動のお陰で混乱状態で、挙句の果てにインド洋は聯合艦隊の独壇場というあり様。つまるところこの三重の包囲網を破らなければ、二進も三進もいかぬ状況なのだ。
しかもそれは政権基盤を直接的に揺るがす大問題と化す可能性が濃厚だった。
まずもって中原の支配者とは、如何なる手を用いてでも、配下の実力者に利益を分け与えられる者であらねばならない。化外の地の人間、例えば口うるさいアメリカのスティルウェル将軍などは、
「支援物資のうち、きちんと軍に届くものが全体の2割しかない」
「対日戦での勝利を得るためにも、汚職を一掃せねばならぬ」
と毎度のように嘆き、改善を要求してきていたが、これは事情を知らぬ人間の戯言だ。
重慶政府に従う軍閥やら士大夫やらは、元々が沿岸部を基盤とする者達だったりする。その辺りは悉く日本軍に占領されており、更にはこれまでに行われた幾多の戦闘で、黄埔軍官学校を卒業した子息が大勢戦死したりもした。とすれば米英が送ってきたものを彼等がくすねるのを黙認し、私服を肥やせしめぬ限り、協力そのものが得られない。それに失敗しようものなら、あっという間に汪兆銘の南京政府に帰順してしまいかねないのである。
だが今や、それら物資が全く届かなくなってしまった。スティルウェル将軍も大統領に掛け合ってくると言って出て行ったきり、未だ戻ってこない始末であった。
事情に通じた部下によると、日本軍による三重包囲を米英軍が撃ち破るには、最低でもあと2年は必要だという。つまるところ死刑宣告に等しかった。それまでの間、軍閥の忠誠心を維持せしめる方法がさっぱり思いつかなかったからだ。
(ううむ……どうしたものか)
蒋介石は眉間に皺を寄せながら、突破口はないものかと思い悩む。
汪兆銘やら日本陸軍の大将やらに、自分が三跪九叩頭の礼をとっている様が幻視される。最低最悪で胸糞悪い光景だったが、放っておくとそうなってしまいかねない。あるいはかつて張学良がやったように、自分を拉致して南京に連れていくような真似をする馬鹿者まで出てくるかもしれない。
(とすれば、かくなる上は……)
痛くなる胃を押さえながら、蒋介石は地図を睨む。
日本軍は南方での作戦のため、かなりの戦力を他所へと転用させたという話だった。一方で配下には数百個師の軍団があり、使えるのはそのうちの半数ほどだとしても、150万超の兵力ともなるだろう。それをもって乾坤一擲の大攻勢を仕掛け、要衝を1つでも陥落せしめれば、自分の威光も高まり政権が安定化するのではなかろうか。
無論、失敗すれば後がないも同然である。だが待っていても見込みがない以上、打って出る他なさそうだ。
「目標は……武漢三鎮。ここ以外あるまい」
かつて南京から逃れた後に臨時の首府とした、数千年の昔より栄えたる都市。
そこから更に揚子江を下った辺りの、日本陸軍第11軍と第13軍の境界と思しき辺りに、蒋介石の目は釘付けになった。そこを両翼から突破し、包囲撃滅の陣を敷く。脳裏に勝利の絵が描かれた。
上海:大飯店
「高谷大佐、どうにも拙いことになっておるようなのだよ」
並べられたる料理を前に、吉田善吾海軍大将は深刻な顔をしてそう言った。
現在支那方面艦隊司令長官を務めているこの人物は、聯合艦隊司令長官や海軍大臣にまで昇り詰めた、雲上人とでも呼ぶべき存在だ。とはいえ在任中にどうにも精神に変調を来してしまい、首吊り騒動まで起こしたと噂されている。それが本当かどうかは分からぬが、やたらと神経質な雰囲気を漂わせていることは間違いない。
「海軍はとにかく戦線を広げまくったせいで、何処もかしこも船が足らん。そのことは君も把握しておるよな?」
「ええ、それはまあ」
作戦参謀の高谷は真っ黒いアヒルの卵を頬張りつつ、どうにも不可解そうに肯いた。
実際、戦線が拡大しているのは間違いない。太平洋では北はウナラスカ島、南はガダルカナル島といった具合で、更には五航戦を基幹とする機動部隊が南太平洋を荒らし回っている。またインド洋ではセイロンだのソコトラだのを取っていて、後者に関しては独伊の部隊に守備を任せる予定としても、やはりとてつもない広がり具合だ。
とはいえ逆に主要な航路帯が、脅威から遠ざけられる結果にもなっているはずだ。
実際、内地からシンガポールに至るまでの南方航路は、ほぼ潜水艦の被害がない。ソロモン諸島方面やインド洋となると話が変わってくることもあるが、少なくとも重要資源の輸送に関してはかなり効率的に運べているのではなかったか。全体からみればさほど大きくないかもしれないが、『天鷹』が鹵獲した貨物船やら油槽船やらも活躍してそうなものであるし、戦時標準船舶とやらも順次就役していると聞いている。
だがそうした見解を高谷が述べると、吉田は空心菜の炒め物が乗った皿を指で叩く。
「そうは言っても、実情はこの茎野菜よろしく中身が空洞だよ。特にうちの艦隊なんてまともな戦力が残っていない。挙句、ガンジス川溯上作戦をやるからと、砲艦や輸送船の類まで持っていかれてしまいそうになっている」
「それはまた初耳です」
インドは自壊を待つ戦略ではなかったかと首を傾げ、
「とはいえ英印軍も酷いあり様のようですから、それもまた有効なのかもしれません」
「中支戦線をぶち壊しにしてまで、やることではないだろう」
溜息混じりに吉田は紹興酒を少しやり、
「大東亜戦争勃発以来、あちこちに戦力を出さねばならん関係で、100万を誇った支那派遣軍は既に元の6割ほどしかない。更にそこから10万やそこらの兵力を転出し、更には砲艦も船舶も持っていかれるとなると、正直戦線が持つかどうか怪しい。それでいて国府軍なんぞ馬賊みたいなものだから大丈夫だという者もおるが、正直心許ないぞ」
「ですがこの間まで、陸軍が兵器やら弾薬やら集積しておったと記憶しております」
高谷は尚も疑問を呈し、
「艦隊からも護衛を何度も出したのではなかったかと。それに広州だか香港だかに、内地で新編した師団が幾つか入っておりませんでしたっけ?」
「大佐、それがガンジス作戦用の部隊だよ。兵器や弾薬にしても、師団を幾つか引き抜く分、守りは固めておくというだけのことだ。とにもかくにも揚子江は長過ぎる、舟艇機動で防御をするにしても船がないのでは話にならぬし、何だかんだで国府軍は200万から300万の兵力を持っておるものと見積もられておる。仮にここで大攻勢を仕掛けられたら持たぬかもしれん」
「100万でこれだけ攻められておるんですから、守りなら半分で済むかもしれませんが……ううむ」
高谷は豚の角煮みたいな料理の、脂の乗った濃厚なる味を楽しみながら、あくまで頭を悩ませる。
今年は陸軍が頑張る年であるから、支那方面艦隊での仕事をしっかりやるべし。上海へと赴任する前、そんな話を大西からされていたのを思い出す。陸軍の一大作戦というのは、シベリヤではなくインドなのだろうか? どうにも違和感がある気がしてならない。
「ともかくもそういった訳で、今後の中支戦線は厳しくなる可能性が濃厚だ。貴官は斬り合いをやるくらいには無鉄砲だから、イケイケドンドンでやってきたのかもしれんが……それでは上手く運ばなくなることもある。言っておるのはそういうことだ」
「了解いたしました。厳しい戦となるを肝に銘じ、業務に邁進いたします」
「よろしい」
吉田は厳かな口調で肯き、同時にこっそり書簡を渡してきた。
怪訝そうにそれを開いてみると――疑問は一気に氷解した。ガンジス作戦などというのは出鱈目の嘘八百、口裏合わせの一環なのだ。実のところ連合国からの補給を失った影響で、蒋介石は政権瓦解の危機に陥りつつある。そのため戦線の何処かで決定的な勝利を求めんとする公算が高く、それを殺し間へと誘引、全力でもってぶっ叩いてしまおうというのだ。
なるほど確かに、これなら今次大戦をひっくり返すことになるかもしれぬ。
高谷はほくそ笑んだ。主力艦撃沈にはならないが、ここで踏ん張れば海軍少将、航空戦隊司令官も確定である。
次回は1月24日 18時頃に更新の予定です。少しばかり大陸戦線の話になります。
汚職があまりに酷い国、幾つか思いつくかもしれませんが……配下の者どもの汚職を許容しないと普通に反旗を翻される、というパターンも案外多いのかもしれません。
ちなみに黄埔軍官学校の卒業生、第二次上海事変の付近で概ねその4割が喪われた……という恐ろしい数字を見たことが。




