フランス戦艦回航作戦⑤
ティレニア海:サルディーニャ島東方沖
「糞ッ、イタ公どものパーティ会場かここは?」
「次から次へとやってきやがる」
潜水艦『グリーンリング』を操る者達の、苦しげなる罵倒が木霊する。
状況はかなり悪かった。イタリヤ空軍のものらしき双発機から接触を受けたのが2日前で、急速潜航でもって爆撃を躱しはしたものの、それ以来まったく浮上できずにいる。ジェノバやナポリを根拠地とする対潜艦艇が次々と現れ、頭上に居座ってピンを打ちまくるものだから、動くに動けないのだ。
「二時方向の海面に着水音……!」
「コケ脅しだ、狼狽えるなよ」
艦長のグラント少佐は労うような口調で言い、周りの者達を安堵させんとする。
その通り、マエストラーレ級と思しき駆逐艦から放たれた爆雷は、深度30メートルほどで爆発した。『グリーンリング』はその倍ほど潜っているし、随分とずれたところに落とされたものだから、被害など及ぼうはずもない。
とはいえ息苦しさと、異様な熱気はどうにもならなかった。
吸着剤の効果も切れてしまったようで、艦内の二酸化炭素濃度は2%を超過。頭もズキズキと痛み出し、暑苦しいから食事も容易に喉を通らない。劣悪極まりない環境を改善しようと欲すれば、海面に浮上して換気する以外なく、海面に駆逐艦やコルベット艦がいる状況では自殺行為にしかならない。
ミイラ製造工場に生きたまま放り込まれてしまった気分だ、グラントはそんなことを思う。救いといえば、電池がまだ十分残っていることくらいである。
「四時方向に注水音」
「あッ、馬鹿な……」
ソナーマンの青褪めた報告に、思わず顔が歪んだ。
僚艦の『ガードフィッシュ』のものに違いなかった。潜望鏡深度まで浮上し、魚雷でもって勝負に出る心算なのだろう。だが如何なる成算あってのことかと歯軋りする他にない。潜望鏡を上げる前に捕捉され、爆雷攻撃を食らってしまうかもしれぬし、仮に敵の1隻を仕留めることができたとしても、生存はまず不可能だろう。
果せるかな、事態はそのように推移した。
浅深度まで浮上した『ガードフィッシュ』はそのまま上手い位置に着けたようで、至近距離からの雷撃によってコルベット艦を撃沈することに成功した。あわよくばその音に紛れて離脱できるのではと、誰しもが願ったものだ。しかし現実はそう上手くはいかぬもので、集中投射された爆雷が連続的に爆発した後、ギリギリと胃を痛めつけるような音響が響いてくる。それが何であるか分からぬ潜水艦乗りなど、この世に存在しないだろう。
「圧壊音、確認」
意気消沈した声。全ての乗組員が打ちのめされる。
僚艦がやられたことが腹立たしかったし、これから3対1で戦わねばならぬという未来への呻吟もあった。
「この隙に離脱し、態勢を立て直そう」
グラントは逸る気性を抑え、努めて冷静に告げた。
「見つかった潜水艦など話にならん、仇を討つとしてもそれからだ」
「……アイサー」
艦長の決定は絶対である。決まった以上、抗命は許されない。
間を置かず航海長が提案してきた。サルディーニャ島の方角に向け、一気に6ノットで進もうというのだ。電池残量も心配となるし、海底に艦首をめり込ませてしまうかもしれぬ危険な案だが、それだけに敵の裏をかけそうでもある。
「よし、それでいこう。方位2-7-0、速力6ノット」
「方位2-7-0、速力6ノット」
復唱が響き渡り、『グリーンリング』は一気に泳ぎ出した。
それを察した駆逐艦が、大慌てで爆雷を投射してくる。精度は案外といい加減なもので、艦に幾許かの浸水を齎しはしたものの、むしろ音の隠れ蓑を提供してくれた方が大きかった。何処まで信じられるか怪しい海底地形図のギリギリのところを攻めながら、一気に棚の終わる辺りへと艦を持っていく。
賭けは見事に奏功し、十数時間の後、イタリヤ海軍の対潜哨戒部隊は引き上げていった。
それを確認した後、『グリーンリング』はようやく浮上した。損傷は皆無という訳ではないにしろ、戦闘航行ともに支障がない範囲あったから、仇を討つ機会もじき巡ってくるだろう。乗組員達は取り入れられた新鮮な空気に喜び咽んだりしながら、口々にそう誓って闘志を燃やす。
だが――グラントはそこで大変なことを思い出す。
「この付近を『ジャン・バール』が通るという話だったよな……」
地中海:シチリア島西方沖
「いやはや、何とか無事、ここまでやってこれたか」
水平線に浮かび始めたシチリア島の影を望みつつ、陸奥中佐は安堵の息をつく。
戦艦『ジャン・バール』をタラントへと回航させるに際し、イタリヤ海軍がつけてくれた随伴艦は駆逐艦2隻のみ。だが間接的なる護衛という意味では、その10倍近い数が動いたということになるかもしれない。わざと流した偽の情報に食い付いた米英の潜水艦を、コルベット艦と水雷艇1隻ずつと引き換えに3隻撃沈し、もう1隻を追い詰めているというのだから、なかなかな奮戦具合だった。
更に言うなら、ドイツ空軍の果たした役割も大きいかもしれない。
双発に見える四発の爆撃機がジブラルタルを空襲し、航空基地を使用不能に追い込んでいたから、長距離爆撃機を心配する必要はない。中には米機動部隊が殴り込んでこないかと懸念する声もあったが、米英は航空母艦でもってかの地の防空を行う他なくなったので、それもまた杞憂に終わった。サルディーニャ島の西岸を通過し、シチリアの南へと抜ける航路を取れているのには、そうした事情もあるのだ。
日独伊三国同盟のまっこと素晴らしい成果。無事に辿り着くことができたなら、そう評せそうなものである。
(とはいえ……分からぬものだ)
陸奥の心はどうにも晴れない。
端的に言ってしまえば、身辺で起こりつつあった謀略を嗅ぎ取り、的確に対処しただけの話ではあった。純粋に裏切られた側であるし、気に病む必要など何処にもない。頭で考えれば簡単であるし、後悔するところもありはしない。
それでも一個人の運命を、かくも明確な形で左右したことはなかった。
これまで航空母艦『天鷹』の副長として幾多の海戦を潜り抜け、敵の将兵を大勢死に至らしめてきはしたが――敵味方であれ相見互いの関係だった。一方、マリィに謀略戦に対する覚悟などありそうにもない。自由意志での参画としても、事情をまともに理解してのものとも思えぬし、それでいて動機はフランス人としては自然だ。そんな彼女を、偶然謀略の世界に足を踏み入れてしまった自分が、破滅するよう仕向けたのだ。
ただの男女でもなく、覚悟をもって裏稼業に邁進するもの同士でもない。それがやたらと苦々しく感じられる。
(処女と童貞で下手やっちまったようなものかね?)
相変わらず酷い喩えだと思いつつ、艦橋からシチリアの島影を凝視する。
それは傍から見ると、危険の潜む航海に未だ厳然たる態度で臨む責任者のそれと見えるだろうか? まともな人員の乗り組まぬ艦を案じているのは無論だが、本当に何を考えているのやら。
「欺瞞情報でもって上手いこと、米英の潜水艦を釣り上げておるようですね」
事情を露ほども把握せぬ航海長が、穏やかなる声で言う。
「どこかの間者と、イタリヤ軍様々というものです」
「まったくだな」
少し誇らしげに陸奥は笑う。
それから従兵に濃く淹れたコーヒーを持ってこさせ、その風味を堪能しつつ、己が務めを果たさんと精勤する者達を眺めた。まずもって同じく陛下が赤子たる彼等にこそ、自分は責任を負っているのだと言い聞かせる。
「ともかくも人事を尽くし、タラントまで辿り着くとしよう」
陸奥はそう言った後、イタリヤ空軍機が飛び回る空の遥か彼方を見つめた。
マリィに関してはもはや天命を待つしかないが、できる限りのことはしたのだ。であれば後はどんな結果になろうと受け留める以外にないのだから、余計な物思いなど無用と念を押す。
戦艦『ジャン・バール』がタラントに入港したのは、それから1日ちょっと後のことであった。
次回は1月20日 18時頃に更新の予定です。
潜水艦隊は待ち伏せされ、『ジャン・バール』はどうにかタラントに辿り着きました。
陸奥中佐のささやかな願いは叶うのでしょうか?




