ペルシヤ湾の海賊③
ペルシヤ湾:クウェート沖
大した変化のない空ばかりを睨まねばならぬ哨戒任務は退屈で、ともすれば睡魔に襲われてしまう。
飛んでいれば基本的にはご機嫌な打井少佐にとっても、それは変わる話ではない。ただ僚機が変なところを飛んでいないかとか、監督者としての要素が加わるので、気が抜けなくはあるのだが……湾岸地域の敵航空戦力は概ね掃討してしまったらしい。補充もないようなので、まったく平穏なものである。
そうして零戦を悠々旋回させながら、高度5000メートルの5割頭でしょうもないことを思い出す。
ミシャー婚というのはまったく便利な制度だ。元々は武芸に秀でたるキャラバンの長とオアシス宿の娘といった間柄での婚姻で、つまるところ船乗りは港々に女ありというのの砂漠版なのだろうが、この概念が娼館の運営に用いられているのである。つまりは入口で婚姻の書類を作成し、出口で離婚の書類に署名するのだ。婚前にまぐわうと死罪にもなり得るという、男女交際に厳格なるアラブ諸国においても、人々は逞しく生きているのである。
「アイーダちゃんだったか」
一戦交えた相手、それはヴェルディのオペラの登場人物と同じ名前の、何ともエキゾチックな娘だった。
戦闘機乗りとは洋の東西を問わず、モテてモテて困る職業に違いない。言葉はさっぱり通じなかったが、大変に情熱的でよい具合であった。つまるところ身体言語である。
「また会いたいもんだな」
独りごちながら頬を緩め、しかし打井は警戒を手順通りに行っていく。
ただ内地に戻った後、この事実をうっかり口を滑らせぬよう、戦友達に口止めをしておかねばならぬ。家内は大変に献身的でありがたいのだが、どうにも悲観的に考え過ぎるところがあるからだ。支那事変の初め頃、戦友の付き合いで上海の女郎屋に突き合いに行ったと正直に申告したら、途端に青褪められた挙句に包丁など持ち出され、
「貴方を殺して私も死にます」
とやられたことがある。新婚ほやほやの時期だったことを考慮に入れても、流石に魂消たものだ。
「まあ、アラビア語の書類なんて読めんよな。俺も読めんし」
そんなことを言いつつ主翼を大きく翻させ、海面方向を監視する。
相変わらず海原はエメラルド色に輝いていて美しいが、やはり見飽きてきた感が拭えない。ただそうした中、少しだけ違和感があるような気配があった。
(ん、何だ……?)
戦闘機乗りとは洋の東西を問わず、直感を重んじる職業に違いない。
己が無意識的判断を重んじた打井は、すかさず捜索へと移行する。列機に何かいるかもしれんと伝達し、目を皿のようにしてあちこちを見回す。湾岸部隊の主力艦には概ね対空用のレーダーが配備されてはいるが、何かの不具合や手違いで見逃してしまうこともあり得る。何時だって眼球は一号警戒装置だ。
「ん、ああ、何だあれか」
優れた動体視力が捕捉したものに、打井はほっと安堵する。
何のことはない、二式水上戦闘機が空へと舞い上がらんとしているだけだった。更に程なくして、高度6000メートルに同じく二式の大型飛行艇が出現する。微妙に枢軸側へと寄り始めたトルコ政府の協力があって、同国東部のヴァン湖を経由してドイツに至る連絡路が最近開設されたから、まさしくその便なのだろう。当然イラク上空を航過せねばならぬから、二式水上戦闘機の方はその護衛に違いない。
「頑張れよ、頑張れよ!」
打井は大きく手を振り、僚機の搭乗員もそれに倣った。
ペルシヤ湾:バンダレ・シャープール沖
「艦長、何時になったら打って出られるのですか!?」
「少し落ち着くのだ」
リンチ大佐はピシリと一喝し、やたらと血気に逸る副長を何とか抑える。
とはいえそれも無理からぬことだろう。カスピ海沿岸へと至るイラン縦貫鉄道の始点たるこの港町は、対ソ支援を行う上での要衝だった。故に連合国の貨物船や油槽船が多く停泊していて、しかも乗組員が陸路で逃げたりしたものだから、砲を唸らせながらやってきた日本の巡洋艦や駆逐艦が、それら船舶を片っ端から接収していっているのだ。
言うまでもなく、リンチ達が乗り組む仮装巡洋艦『バジリスク』にも、捜査の手は及ぼうとしていた。
スウェーデン国旗を掲げているから、そこまで手荒なやり方をしてこないと見込んではいる。だが相手は野蛮で非常識な黄色人種であるし、東洋の邪悪な黒魔術的な手法を用いて何に勘付いてしまうかもしれない。そうした疑心暗鬼に苛まれているが故、発想がどうあっても近視眼的になってしまうのだ。
「今撃てば、敵の駆逐艦くらいなら一撃で沈められます。巡洋艦であっても大損害を与えられるでしょう」
「駄目だ。今動くのは得策ではない」
リンチは改めて巌と跳ね付け、
「我々が何より討つべきは、『インドミタブル』を寝取っていった忌々しい食中毒空母だろう? 貴官もあれを沈めたくて仕方がないはずだ。だが見てみろ、奴がいったい何処にいるというのだ?」
「しかしこのままでは……我々の正体が先に露見するやもしれません。最悪の場合、我々は何の戦果も挙げられぬまま捕縛され、更に名誉を喪うこととなるやもしれません」
副長は心底悔しげな表情を滲ませ、
「それに艦長……我々はホルムズ海峡で待ち伏せ、敵が来寇したところを撃ちまくるのではなかったのですか?」
「リスクが大き過ぎ、得られるものが小さいと判断したからだ。これは怯懦からではなく、合理性故の判断だ。だいたい何処の強盗であれ、家や銀行に押し入る時は相応に慎重なものだろう。だが帰りは違ってくる。警察に取り囲まれていなければ、奪ったものを手に意気揚々とずらがることだろう。とすれば、隙はそこにあるという寸法だ」
「この艦は精々が20ノットです、食中毒空母に追い付けないのではありませんか?」
「私にいい考えがあるのだよ」
リンチは不敵に微笑み、幾分小さな声で秘策を開陳する。
それを耳にしていくうちに、副長の表情がみるみる明るくなっていった。少しばかり憔悴し狼狽していただけで、論理的思考能力に問題があった訳ではないのだろう。
「どうだ、分かったろう? これがあの食中毒空母の懐にまで忍び込む一番よい方法だ」
「はい、自分の至らなさに恥じ入るばかりです。今一度改めて、甲板士官達とスウェーデン語の復習をしてまいります」
副長は活力溢れる声で宣い、すぐさま駆け出していく。
幾らか時間が経った後、そうした努力は結実した。臨検ということで日本の駆逐艦から十数人が乗り込んできたものの、英語ですら辛うじてという水準だった彼等は、仮装巡洋艦『バジリスク』の正体をさっぱり見破れなかった。鉄鉱石を売って絨毯を仕入れて帰るところ、戦闘に巻き込まれてしまった。そんな説明を信じてしまったのである。
「ちょっと変な気もするが……外国語はよう分からんし、中立船舶だからよし!」
程なく、駆逐艦はそう結論付けて去っていった。
攻撃目標に接近するための第一関門突破である。リンチ達は喝采の声を高らかに上げ、自分達は神に見放されてなどいないと確信した。
明日も18時頃に更新します。
日独連絡路が確立されつつあります。一方、仮装巡洋艦は未だに潜伏中。
なおミシャー婚制度を活用(?)した意味深なサービスは本当にイスラム諸国に実在するそうです。当時からあったか? と言われると微妙に怪しくなりますが……多分あったんじゃないでしょうか?




