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インド米騒動計画

チッタゴン:カルナプリー川河口部



 昭和17年末の英領インドはというと、とにもかくにも混沌を極めていた。

 物流の混乱と飢餓、罷業に暴動、軍部隊の反乱・離散といった具合に、無秩序のフルコースである。開戦と同時に泰緬国境から雪崩れ込んできた日本軍がビルマ全土をあっという間に占領した挙句、セイロン島まで陥落させてしまったお陰で、総督府の統治能力が大幅に低下してしまっているのだ。しかも英東洋艦隊も壊滅的損害を受けて撤退したため、増援を送れる見込みもまるでない。第二次インド大反乱も間近、そんな観測すら囁かれているのだ。


 そうした中で何が決断されたかというと、ベンガル地方での焦土作戦である。

 日本軍がインドにまで攻め込んだとしても、それ以上西へと進めぬようにせねばならなかった。特にセイロン島を経由したインド沿岸部への上陸が懸念されたから、ビルマ方面にばかり兵力を回せぬという事情もあった。故に道路や橋は爆破され、船は貨物船からボートまでの全てを没収、牛車や手押し車すら打ち壊されるに至った。かつて蒋介石が堤防を爆破して黄河流域を水浸しにした例があったが、それに倣って幾つかの河川を意図的に氾濫させることも検討されたという。


「飢餓は起こるさ、あの辺は元々人が多過ぎるからな」


「汚れた土地に住むウサギ並みの繁殖力の民族であるから仕方ない」


 当然予想される事態に対し、英国のチャーチル首相はかように回答した――という説もある。

 その真偽はともかく、ベンガル地方一帯が通行不能地帯と化したのは事実だ。今こそ援蒋ルート完全遮断とインド解放の時であると、更なる攻勢を発起した日本軍も、チッタゴンからインパールを結ぶ線で停止せざるを得なくなった。無論のこと兵站線を確保できないからで、それを考えれば焦土作戦も一定の効果を上げたと言えるのかもしれない。


「とはいえ、民心は確実に離反する」


 この前とは別の大本営参謀中佐が力説していた内容を、高谷大佐はぼんやりと思い出す。

 蒋介石の黄河堤防爆破作戦によって家や田畑を喪った被災地域の住民は今、自発的に皇軍への協力を申し出、来年にも発動されるらしい一大攻勢作戦の準備をよく助けているという。であるからそれと似たような現象がベンガルでも期待でき、影響はインド全土に波及し得るとのこと。まさにインド米騒動誘発計画である。


 故に航空母艦『天鷹』は、下段格納庫に大量のコメを積み、陥落からまだ間もないチッタゴンにやってきた。

 専門の貨物船ほど効率はよくないにしろ、艦載の大発動艇でもって、あちこちに物資を運ぶことができる。撤退する英軍が徹底的に破壊していった関係で、港湾は部分的にしか復旧していないから、それがまた活きている形だった。


「インドを丸っと解放ってのもなかなか大変だなあ、インド丸よ」


 高谷は茶菓子など頬張りながら、ちょうど飛び乗ってきた猫のインド丸を撫でる。

 飢餓なんてあったならば、猫だって生きてはいられない。貴重なタンパク源みたいに扱われてしまう。


「大東亜共栄圏への道程はまだまだ遠いということかね」


「艦長、急にどうなされたのですか?」


 コメの荷下ろし状況の報告にやってきた抜山少佐が首を傾げ、


「とりあえず今のところ、荷下ろしも炊き出しも順調です。陸軍の部隊が協力してくれることとなりましたので」


「うむ。もう将棋倒しだのは勘弁願いたいものだ」


 生々しく脳裏に浮かぶは昨日の大混乱。

 海軍の軍艦が炊き出しとコメの特別配給を行うと宣伝したら、会場に地元住民が集まり過ぎ、圧死者が随分と出る事件となってしまった。人数分あるから整列して待てと言っても聞いてはくれないし、いい歳した大人が他所の子供の分を奪って食おうとするなど、不届き千番な者が多数出たほどだ。


 だがそれだけ現地の食糧事情は切迫していたのである。

 痩せ衰えならがも眼をぎらつかせ、我先にと配食場に押し寄せる彼等は、まさしく餓鬼道に堕ちたる亡者の如し。衣食足りて礼節を知ると昔から言うが、衣食が本当に足りなければ、人間はかくも悍ましい姿となる。この世の地獄にあってそうなるのを、いったい誰が責められようか。


「まあ結局のところ一番の原因は、英軍がこの辺りで清野の計をやって逃げたからでしょう。とすればチッタゴンの住民には、感謝されこそすれ恨まれはしますまい」


「いや、それはそうなんだけどなヌケサク」


 高谷は幾分悲しげな顔をして考え込み、掌の上の茶菓子をじっと見る。


「結局こうやってコメを配っておるのも、占領地の宣撫という面も当然あるが……日本の軍艦を出してまでコメを配っておるのにとインド人民を怒らせ、米騒動でもって英総督府やら英印軍やらをを壊乱せしめるのが狙いなのだろう? 上手い手なんだろうとは思うが、暴動だの反乱だのが起きたら起きたで、また何処かで食い物が足らんとか届かんとかなって大勢が飢えるのと違うか?」


「まあ、それはそうかもしれません」


 少々意外な見解だとばかりに抜山は肯き、


「とはいえ戦争なんですから綺麗事ばかりでは済まぬでしょう。インド人民が開戦より前に独立を勝ち得、今次大戦での局外中立を宣言できていたのならば話は違っていたでしょうけど、そうはならなかった訳ですから」


「正直今すぐカルカッタやマドラスに軍隊を送って、外道どもを成敗してやりたい。ベンガル湾強襲上陸作戦だ。だが今は師団が足らんから難しいと、この間の大本営参謀が抜かしておった。それに攻め込んだら攻め込んだで、英軍がまた清野をやって飢える者が出るかもしれんし、最初から攻め込まねばよかったかというとこれまた絶対違う。だから大東亜共栄圏というのもなかなか難しいもんだと思ったのよ」


 重苦しい沈黙。あれこれ考えたところで、容易に答えが出るような問いでもないのは明白だ。

 ならば考えたり想像しなければいい。それは大変に正しく合理的な処世術なのではあろうし、大なり小なり皆そうしている。だが特に酸鼻を極めた光景を目の当たりにした後だと、これもまた大変に難しくなってしまうのだ。


 惨たらしい部下の亡骸を見たことは度々あったが、彼等には大義があった。

 その一方で、これから飢えに苛まれることとなるインドの人々には何があろう? 戦略的な利用価値なのだろうかと思うと良心が咎めてくる。


「ううむ……」


 高谷は胸中の澱みを吐き出し、改めてインド丸を撫でる。にゃごにゃごという鳴き声。


「どうにも陳腐極まりない感じだが、自分にできることを精一杯やるって話にしかならんのだろうかな? 件のイチモツのない看護婦も似たようなことを言っていた気がする」


「艦長、小学生低学年みたいな物言いは、その。クリミヤの天使とか何とかと呼ぶ方が適切と思いますよ」


 抜山も少しほっとした顔で苦笑し、


「まあとにもかくにも我が国がこの大戦に勝利せぬことには、大東亜共栄圏も何も絵に描いた餅でしょう。それに負けが込んでくると、あの光景が内地で繰り返されることとなるかもしれんのですし、絶対にそれは避けねばなりません」


「まったくだ。しょげ返ってないでさっさと聖戦の遂行に邁進するとしよう」


 頭に渦巻く釈然としない気分を押しのけ、高谷は執務へと戻っていく。

 何はどうあれ、コメを運べば命を繋げられる者も大勢いる。係の者から南京米の日の丸弁当を受け取って、感謝に咽ぶ親子だっている。それらは紛れもなく身近にある事実に違いなかった。


 なお彼が十分な注意力の持主だったら、『天鷹』が配っているコメも割と妙な経緯で調達されたものと気付いたかもしれない。

 実のところそれは、ドイツから調達したベトナム産のコメであった。この頃のドイツ政府は、フランス・ヴィシー政府からの占領税取り立ての一貫として、仏印政庁がせっせと溜め込んでいた食糧備蓄の一部をかっぱらっていた。日本占領下のマレーに送ったUボートに天然ゴムや錫なんかを積み込む際の対価として、ドイツ本土に送れそうにもなさそうなそれを活用したという、因果な経緯があったのである。

明日も18時頃に更新します。


アメリカが消滅してしまう某作でも取り上げられた内容ですが(あと「令和時獄変」でもこっそり)、史実でもベンガルで焦土作戦が実施され、飢饉が発生しています。

理由が本当に「日本軍が攻めてこれないようにするため」なので、本作品の世界では、それが奏功したということになってしまうのでしょうか?

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[一言] Uボートが来航する様になりましたか これで規模こそ最小ですけど、独日の往来が盛んになりそうです オイゲン・オットもUボートで帰るのかな? これだと地中海で暇してる独伊潜水艦によりモンスーン戦…
[良い点] チャーチル「全艦艇を動員してでもあの食中毒空母を仕留めよ!」(抜け毛をまき散らしながら)  史実だと地中海が凄いヤバい状態(マルタ島の緊急補給作戦実行中)ですんで、インド洋までは手が回らな…
[良い点] 便利屋として酷使されてる時が一番輝いてるような まぁあきつ丸改二みたいなもんですし戦艦空母とガチバトルするよりいぶし銀として相手にボディブローしてる方が戦略的ダメージ大きそう
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