史上最低最悪の海軍記念日⑨
珊瑚海:サンタクルーズ諸島沖
あまりにも過酷を極めた1日が、ようやくのこと終わろうとしていた。
日付が変わった頃に深夜のガダルカナル島に突入し、開戦以来の損害を与えたのと引き換えに戦艦『インディアナ』と護衛艦艇の全てを失った。それから幾度かの空襲に見舞われ、避け切れず航空魚雷を食らい、更には残存水雷部隊と思しき小艦隊から度重なる接触を受けながら、どうにかここまで辿り着くことに成功したのだ。
「休める者は今のうちに休ませておけ。ほんの僅かであっても、眠ればその分だけ頭が冴える」
リー少将は慈父が如き声でもって命じる。
誰も彼もが、くたくたに疲弊しているはずだった。警戒は緩める訳にはいかぬとしても、だからといって無理を強いて翌日に影響が出るようでは拙い。短時間であれ綺羅星の下で眠ることができれば、気合も漲ってくるだろう。
「敵水上艦は、レーダーで追尾できるのだな?」
「はい。20海里以内なら間違いなく」
艦長たるデイビス大佐がはきはきした声で応じ、
「ここは海のど真ん中ですから、島と見間違えることはありません。それに我等が『ワシントン』と『サウスダコタ』以外は、全部敵と見て問題ないでしょうから」
「違いない。それにしてもグレン、君は随分と元気なのだな」
「先程、少し目を閉じておりましたので」
「ゴロゴロと異音が響いておったから、機関の不調かと思ったものだが……なるほど貴官のイビキだったのか、これは驚いたな」
「え、そんなに喧しかったですか?」
艦橋は屈託ない笑い声に包まれる。実際、随分な音量であった。
とはいえ、希望も一緒に湧いてくる。現在21ノットで南下中の艦隊は、明朝にはエスピリトゥサント島沖に到着する。同島には40機ほどの航空戦力が存在しているから、その傘に入るのだ。更にそこで油槽船『サビーネ』から燃料を受け取り、一気に南東へと進む。囮船団の護衛に当たっていた8隻とエロマンガ島沖で合流し、米領サモアを経て真珠湾に戻るのだ。
それにしても――魚雷が変なところで爆発してくれて助かった。リーは心底そう思った。
やたらと付き纏ってくる小艦隊は、如何なる手段を用いてか上手いこと潜水艦と連絡を取り、その潜伏海域に自分達を誘導したのだと見られている。とすれば実際危ないところだった。何処からか放たれた魚雷は、『サウスダコタ』の手前で起爆し、水中衝撃波をもって彼女の右舷に損傷を与えたが……直撃だったらもっと酷いことになっていただろう。
払った犠牲も決して少なくないとはいえ、自分達には幸運の女神か何かの加護があるのかもしれない。
「ともかくも、あと少しで安全圏のはずだ」
リーは朗らかな口調で言う。
正直なところ、日本軍は何処まで追撃してくるか分からない。それでも南雲機動部隊は北太平洋のはずだから、フィジー沖まで逃げれば断念することだろう。味方との合流予定海域まで、あと500海里ほど。
「ただし……夜が過ぎれば明日は今日だ。大慌ての日本軍がろくでもない戦を仕掛けてくるかも分からん。だから今のうちに鋭気を養い、備えておかねばならんぞ」
そうした訓示の後、リーもまた一瞬だけ目を休めることとした。
彼もまた喧しいばかりのイビキを立てた。2隻の戦艦は煌く星々の下を21ノットで進んでいく。
「ううむ、なかなか距離が詰まらぬものだな」
聯合艦隊を率いる山本大将は、少々困ったような口調で言う。
敵までの距離は70海里程度と見られている。本来ならばそろそろ捕捉していてもおかしくはない頃合いだ。陸攻隊や重雷装艦によって打撃を与え、行き足の遅れ出したところを、戦艦『大和』の46㎝砲をもって撃沈するという筋書きだ。
だが米新型戦艦は未だもって、20ノット超の速度で遁走している。
恐らくは陸攻隊や重雷装艦が、そこまでの戦果を挙げられなかったのだろう。手負いの戦艦2隻が相手でもこれなのだ。今後連合国軍の反攻を迎え撃つに当たっては、それら戦力に過度な期待をしてはいけないのかもしれない。
「それにしても……ニューヘブリディーズ諸島方面に逃げられると厄介だ。どうしたものかな?」
「大丈夫です、問題ありません」
黒島大佐が圧倒的自信と妙な臭気を漂わせながら続け、
「敵戦艦はあと6時間もしたら、東に舵を切らざるを得なくなります。間違いありません」
「もし、そうしなかったらどうする?」
「神仏でも恨みましょうかね、ははは」
相変わらず豪胆なのか蛮勇なのか分からない。
それでもあまり懸念する必要もなかろうと、山本もまた思っている。それに考えなしなことを言っているように見えて、ちゃんと予備の策くらいは用意してあるのだろう。例えば第二水雷戦隊の一部を抽出して近藤中将の隊に増援として送り、再度の雷撃をもって仕留めるとか、色々と手は考えられるものなのだ。
「まあ、夜が明ければ全て分かります。ざっくばらんにいきましょう」
珊瑚海:エスピリトゥサント島西方沖
「難しく考える必要はない。大急ぎで行って、迅速に敵を木っ端微塵にして、可及的速やかに戻ってくるのだ!」
「合点承知の助!」
黎明。どうにも自棄気味な声で高谷大佐は訓示し、搭乗員達が愚連隊風に返答した。
航空母艦『天鷹』の飛行甲板には艦載機がズラリと並び、あらん限りの爆音を撒き散らしている。直掩機を除いたほぼ全力だ。未だ水平線に朝日が昇らぬ中、攻撃隊を発進させんとしていた。
続けて飛行長の諏訪少佐が、改めて攻撃目標の説明を行った。
角田少将から厳命されている通り、真っ先に叩くべきはエスピリトゥサント島の航空基地群であり、そのため制空隊の零戦9機を除いた全機が爆装している。対艦攻撃において一番厄介なのが戦闘機による妨害であるから、その可能性をまず粉砕した上で、袋のネズミとなった戦艦を改めて料理すればいいという訳だ。『天鷹』の魚雷や大型爆弾が少なくなっていることを考えれば、大変に合理的な戦術だと言えよう。
「飛行場に当てた数に、酒一升を掛けていただきたい!」
「帰還したらすぐ飲み出さないならまあ。あとちゃんと帰還するんですよ、帰還しないと飲めませんし」
「あたぼうよ!」
そんな調子で変な確約を得ながら、攻撃隊の面々が愛機に飛び乗っていく。
「発艦始め!」
まず身軽な零戦が、続いて命中率ならピカ一の九九艦爆が、飛行甲板を駆け抜けていく。25番爆弾を2発も抱いた九七艦攻は例によって一番最後だ。
各機が集合して小隊、中隊と隊伍を整えていく中、搭乗員達は遥か東方の空が少し明るみ、紫がかった雲が細く棚引いたりするのを目撃する。なかなか明媚な光景だった。もっともそこで「春は揚げ物」などと季節感も風情も欠片もないことを口にしたりするから、鉱油天麩羅の被害者が定期的に出たりするのだろう。
そして数十分して編隊が整うと、一斉に空中進撃を始めた。エンジンの音は徐々に遠のいていく。
「ううむ、帰還は何時になるのだろうな……」
「8時半くらいには戻ってくるかと」
諏訪が特徴のない声で答え、
「急ぎ収容して再整備すれば、正午より前に再攻撃ができるかもしれません」
「それまで戦艦が残ってくれておるかが、艦隊とか陸攻隊とかに手柄が横取りされぬかが、心配で仕方ないのだ!」
高谷は声を大にして喚き、幾人かを困らせる。
無論のこと魚雷や大型爆弾の数が増えていたりはしない。ただ軽慮浅謀を重ねた末、1発でも当てておけば半分はうちの手柄と言い張れるという結論に達したのだ。もっともそうなったとしても、既に陸攻隊は魚雷2発を命中させている訳ではあるのだが。
明日も18時頃に更新します。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、でしょうか? 果たして『天鷹』は戦果を挙げられるのか……?




