大英帝国ヲ存続サセヨ!?
ロンドン:首相官邸
戦時宰相たるチャーチル首相の精神は、ここ最近、奇妙な形で安定していた。
つまるところ、悲報が多過ぎたのだ。悪意を煮詰めたようなそれらを投げつけられては、卒倒だの失禁だのを繰り返し、それでも政権の座にあり続けた結果、煌きや魔術的な美に類するものが綺麗さっぱり削ぎ落されてしまったのである。
ただ国益という観点からすれば、必要不可欠な変化だったのだろう。
ドイツ軍の強力無比な機甲師団がルーアンへと突入し、激烈なる市街戦が繰り広げられる中、チャーチルの思考は遥か彼方を向いていた。かつて彼はヒトラーと戦うためならば悪魔とでも手を携えると宣ったが……今まさに模索していたのは、悪魔と手を携えてすら打倒できぬ冒涜的な敵を対岸に抱えた状態で、帝国をどうにか存立せしめる茨の道であった。
無論のことそれは、ともに政権を支えたる腹心達にとってすら、突拍子もないものだったに違いない。秘密会議の場に集まった彼等の表情が、何よりも雄弁に物語っていた。
「ええと、その、首相閣下……」
外務大臣のイーデン卿は明らかに困惑し、
「燕雀が如き私めには、閣下の志すところがまったく判然といたしませぬ」
「端的に言うならば、窮地を好機に変えるということに他ならぬよ」
チャーチルはそう言ってバハマ葉巻の煙を吹き出す。
とうとうおかしくなってしまわれたのでは。悠長に過ぎる態度に、大臣達は思わず顔を見合わせた。
「まことに遺憾ではあるが……欧州反攻はもはや成りそうにない。相当に贔屓目に見て、ノルマンディーの一角に橋頭堡を維持できれば御の字といったところだろう」
見通しが悲観的ながら現実的であることは、列席者の苦しげなる沈黙が証明していた。
ドイツ軍の大攻勢をまともに食らったフランス北東では、英連邦軍6個師団を含む25万もの兵力が、半月と経たぬ間に失われてしまった。それは欧州上陸を果たした連合国軍兵力の2割にも及ぶ、爾後のあらゆる作戦計画を破綻せしめる大損害だった。
だがこの危機的状況にもかかわらず、パリの放棄が決断されることは遂になかった。
自由フランスのドゴール将軍と、まんまとその口車に乗せられたルーズベルト大統領が、あまりにも強硬に反対したためである。今度は40万の軍勢が市民ともども包囲されるという至極当然の懸念に対しても、輸送機を総動員しての補給を敢行するなどと言い出す始末で、まったくもって手の施しようがなかった。
そうした状況を鑑みれば――祖国が窮地に陥りつつあることは論を俟たないだろう。
とはいえそれを好機に変えるとなると、ラクダを針の穴に通す方が簡単と思えてくるに違いない。何故なら自分もつい先日までそうだったからだ。集いし者達の反応を見極めつつ、チャーチルは更に弁舌を振るっていく。
「仮にそこで戦争に終止符が打たれるとすれば……事実上の欧州統一国家を対岸に抱えるという、大英帝国始まって以来の地政学的危機に直面することとなる。そうなれば我々は、グレートブリテン島をもって全体主義に対する防波堤とする他ないだろう。国土を徹底的に要塞化し、50万からの常備兵力と数千の迎撃機を揃え、悪辣なるナチの軍勢と対峙しなければならないのだ」
「首相閣下、常々思ってきたことでございますが」
アンダーソン財務長官が呆れたような顔で口を開く。
「紳士たる者、金勘定に汲々としているようではいけない。それは不変の真理ではございましょう。しかし帝国の運営には間違いなく財源が必要で……既に我が帝国のそれは破産寸前なのですぞ」
「なるほど、確かにそうだ」
「であれば閣下、もう少し財政を注視していただきたく。我が帝国は開戦からこのかた、年間の国民総生産に匹敵するほどの対米債務を新たに抱え込んでしまっております」
「把握しておるよ。植民地人が債権を盾に、帝国を切り刻もうとしているのを含めてね」
チャーチルはまったく泰然自若とした態度で応じた。
それからあまり愉快でない記憶を蘇らせる。大西洋憲章をインドにも適用するべきだと無茶な要求をし、リンスゴー総督を辟易させた馬鹿で間抜けなアメリカ人は大勢いた。国家間に真の友人はいないというが、これほど横柄で独善的なのも珍しいとすら思う。
「だがここに至り、状況は変わってきた。大変なる地政学的悪夢と引き換えであるとはいえ、植民地人の目論見もまた潰えることが明らかとなったのだよ」
「ええと」
会議室はざわつき、如何なる意味かと問う声が多数。
それらがある程度落ち着くのを待ちながら、チャーチルは乾燥気味なる笑みを浮かべた。
「例えば……仮定の話だが、全インドが今この瞬間に独立したらどうなるだろうかね?」
「真っ先に大東亜共栄圏とやらに加入し、我々に牙を剥くかと」
スタンリー植民地大臣が即答する。
「というより、既に思い切り牙を剥かれておりますが。日本軍は自由インド政府軍を自称する不逞の輩を何十万と引き連れ、カルカッタに向けて攻勢を仕掛けてきておりますし、暴動や罷業、反乱の類も治まる気配がありません」
「まあカルカッタは問題なく守り切れるとして」
"兵站上の理由"を根拠にチャーチルは難なく断じ、
「ここで重要となるのは、枢軸国の打倒が果たされぬまま今次大戦が終焉を迎える場合、植民地の独立は敵対勢力の拡張に直結してしまうということだよ。転げ落ちたらすぐ盗人に掴まれる高価な宝石は、どうあっても王冠から外す訳にはいかない。これまでともに枢軸国と戦ってきた植民地人に、利害を解する知恵が僅かでもあるならば、必ずこの結論に辿り着くはずだ」
「その、大西洋憲章に関してはどうなります?」
「イーデン卿、そこは上手く言い繕ってくれたまえ。どうあろうと我々の都合は通るのだからな」
チャーチルは鼻を鳴らし、幾分嗜虐的に笑みながら自説を開陳していく。
結局のところルーズベルトの画策は、今次大戦で決定的なる勝利を収めた後の、理想主義的に過ぎる世界を前提としている。その実現可能性が潰え、ナチズムやファシズム、ボルシェビキズムとの勢力均衡を図らねばならぬ状況ともなれば、空想は現実主義によって放逐されてしまうだろう。
そしてそうした現実主義の文脈において、大英帝国の存在は合衆国の防衛に直結する。
となれば幾らか片務的な協力関係すら構築できそうだった。仮に植民地を巡るあれこれで、合衆国の政治家や有権者が気分を害することがあったとしても、必ずそれは安全保障上の利害と噛み合うこととなる。多少の認識の差があったところで、極まりなく過激な全体主義思想を相手とするよりはましと考える他なくなるし、結局のところ"可哀想な誰かさん"の話は案外と早く忘れ去られてしまうのだ。
「であれば……財政上の諸々に関しても、同様に考えることができるはずだ」
「と、申されますと?」
「先程、紳士の金銭感覚についてご高説をいただいたが……確かに紳士同士の間柄であれば当然、借りた分は一刻も早く返済するべきだと思うものだろう。だが、国家間のそれはもう少し複雑だ。この場合、もっと多く借りてしまうべきなのだよ」
衝撃的なる発言に、出席者が揃って目を丸くする。アンダーソンの顔などはまったく見物だった。
ただこれまでの説明内容から、幾人かは新たなる見解を得たようだ。まるで詐欺師のような物言いで、厚顔無恥との誹りは免れぬかもしれないが、その程度で国益が保たれるならばどうということはあるまい。
「ここで割のよい融資が十分に設定されなければ、我々はナチの軍門に降る他なくなる。そう説得すれば植民地人も首を縦に振らざるを得んよ。ともかくもそうして借り入れた資金を元手に、あらゆる産業を振興、復興せしめ、次の戦争への備えを講じるのだ。我等が大英帝国を存続せしめるには、それが何より重要だ」
チャーチルはそう締め括り、己が世界観に閣僚達を引き込んだ。
非伝統的状況には、非伝統的対応が必要。そう主張していた学者の言葉を、幾つかの側面において反芻する。
「ところで首相閣下、やはり借りた分は何時かは返済せねばなりません。どれほどの期間を想定しておいででしょうか?」
「そうだな……」
アンダーソンの問いに対する回答を、チャーチルはなかなか楽しそうに考える。
その瞬間、犬の如き言語で喧しく絶叫する、仇敵なるちょび髭煽動家の姿が脳裏に浮かんだ。その内容はまったくもってお笑い種だが、諧謔の材料にはできると気付く。
「1001年払いがよいだろう。ヒトラーめが演説したところによれば、新たな千年王国が築かれたそうだからな」
次回は10月6日 18時頃に更新の予定です。
散々な目に遭わされていたチャーチル首相が変な方向に覚醒してしまいました。どうして!?
一応、大英帝国の植民地圏が史実のような形で独立せず、そのまま英国(ひいては西側諸国)の影響下に残り続けていた方が、冷戦は実のところ有利だったのでは? ということを考えたことがありました。史実よりも連合国側が不利で枢軸国の軍事的打倒に至らぬ場合、軍事的な対立関係が遥かに深刻となり、植民地の分離が安全保障上許容できなくなることから、こうした発想がより顕在化してくるのではないか? と考えてみた次第です。
まあ恐らく本作品世界の戦後史は、私達の知っているそれとは常識レベルで隔絶したものとなりそうですが……そうした架空史ならではの異質性もお楽しみいただければ。
なおタイトルは、19世紀的な帝国が存続するということで、思い切りこちらの作品を参考にさせていただきました。
なろうにも転載されておりますので、未読の方は是非(本家ページのサブタイが「大日本帝国ヲ存続サセヨ!?」になっております)。
https://book1.adouzi.eu.org/n0155fv/




